其れは、祈りにも似て。

 彼は僕のことを、『一護さん』と呼ぶ。
 僕の父、黒崎一護がこの世を去るとき、半ば無理やり彼──キルゲさんを僕の中に取り込んだ。父は僕の行いを咎めず、ただ「……しょうがねえな、頼んだぞ」とだけ言って目を閉じた。そのまま目覚めることがなかった父の葬儀が終わって、魂葬も済んだ頃、僕は彼を開放した。僕の中で涙に暮れていたはずのキルゲさんは僕を見上げて、父の名を呼んだ。
 あっけにとられた僕をあまりにも不思議そうに見つめるものだから、「……なぁに、キルゲさん」と返事を絞り出すので精一杯だった。でも、口調の違いで気づいてくれるかもしれないという淡い期待は即座に裏切られることになる。戸惑う僕を見て「? いちごさん……?」と首を傾げた彼の眼に、僕は映っていなかった。僕は確かに、彼の瞳の奥に父の影を見た。
 少し前まで父の一部だったキルゲさんは今、確実に僕の魂魄と繋がっている。それは紛うことのない事実だ。でなければ父が亡くなると同時に彼は消滅していたはずだから。なのに、どうして僕をあの碧い瞳に映してくれないのか。この疑問を追究すれば、僕は答えを得るとともに彼を壊してしまうだろう。そんな予感があるが故に、僕は彼の好きにしてもらうことにした。
 眉間に皺を寄せる癖があった父にかつてそうしていたように、とても楽しそうに僕の眉間に指を滑らせても。
 真っ赤な苺を示して、「おそろいですね」と嬉しげに微笑んでも。
 彼と初めて身体を重ねて、そのさなかに切なく何度も何度も父の名を呼ばれても。
 それでも良かった。今自分の魂魄の中に彼の、キルゲさんの微弱な霊圧が感じられるだけでもじゅうぶんにしあわせだった。
「──どうされました、一護さん」
「ん? んーん。なんでもないよ、キルゲさん」
 とっさに口をついて出た嘘に、キルゲさんは上目遣いにこちらを数秒のぞき込んでいたけれど、やがて寝返りを打って天井を見上げた。
「ごめんなさい、一護さん」
「どうしてあなたが謝るの?」
「また、裏切らせてしまった」
 今の僕に家族はいない。だから裏切る相手もいないし、キルゲさんさえいてくれればそれで良いと考えている。キルゲさんと出逢ってから10年程が経つから、当時の僕には解らなかったことが、今ならなんとなく理解できるようになった。幼い頃僕は、キルゲさんを『お父さんの好きなひと』と表現したことがある。そんな生やさしい関係であったなら、彼を消滅という形で開放できていたはずだ。でも今は彼をこの世界に縛り付けているものが、『執着』という醜い感情であることが解る。
 彼は自分のことをあくまでも『監獄』でしか無く、父を縛り付けてしまっていると言うけれど、実際はその逆だ。父がキルゲさんに向けたその感情を、今は僕が引き継いで彼を閉じ込めているんだ。
「キルゲさんはさ、僕の大切なひとなんだから。あなた以外にそう思えるひとは居ないんだよ?」
「……貴方はいつもそう言ってくださいますが、……っんぅ」
 ちゅっとキスを落とす。少しだけ不満そうにキルゲさんが声を上げる。その声に反して僕の胸に縋るように添えられた手がいじらしくて、かわいくて、僕は何度も口づけた。どれだけ身勝手な執着で彼を必要としているか、触れ合った手や唇から全て伝わってしまえばいいのに。いっそこの手で壊してしまおうか、そんな想いすら伝えたくて僕は何度もキルゲさんにキスの雨を降らせた。
 ついばむような口づけを一頻り贈った後、僕はやっと彼の上から退いた。
「僕、キルゲさんと”りょうおもい”になりたいよ」
 ぽつりとこぼれた本音に、まずいと思った。咄嗟にキルゲさんを見ると、彼は顎に指を当てて何かを思案しているようだった。早く何か言わなくては、と考えあぐねている間に、キルゲさんが口を開いた。
「その言葉……何時だったかどなたかから聴いたような……」
「あ……えっと、キルゲさん? 気のせいじゃないかな……!」
「Nein. たしかに私は……? え、あれ? ……廊下で出逢った少年……オレンジの髪、幼気な口調、こちらを見つめる真っ直ぐな瞳に映った月光……それらを私は大変好ましく想っていたのに……あの少年はいったい……貴方はいったい、誰なのですか」
 いけない。彼の中で無かったことになっている現在の僕をこれ以上思い出せば、キルゲさんの中でかろうじて黙殺されたはずの『黒崎一護の死』という事実が彼を襲うだろう。
 キルゲさんが壊れてしまう。
 そう考えた時、どうして今までこの関係が壊れていないと思いこんでいたのだろう、という思いが頭を擡げ始めた。そもそも黒崎一護の息子である僕を『一護さん』と呼ぶところから否定しなくてはならなかったのではないか。
 彼は、キルゲさんは、既に壊れていたんだ。
 納得してしまえば、あれらの気遣いはただの僕のエゴに過ぎなかったことに気付かされる。
「キルゲさん。僕だよ。一勇だよ」
 静かに告げれば、キルゲさんは頭を抱えた。しきりに「うそ、うそだ。だってかずいさんは」と震える声で呟いているキルゲさんを抱き締めて、何度も何度もその心に沁み込ませるように僕は自分の名前をキルゲさんに囁き続けた。
 しばらくそうしていると、キルゲさんは弾かれたように顔を上げて僕を見た。そして問うてくる。
「いちごさんは、一護さんはどこですか」
 僕はすかさず答えた。
「亡くなったよ?」
 本当は心の底で理解しているくせに。
 僕が黒崎一護ではないことも、父があなたのことを最期には僕に任せて逝ったことも。
「……でもそんなことどうだって良いじゃない。あの人はあなたを愛するあまり、ついにはあなたを手に掛けることができなかった。でも僕は違う。最期はきちんとあなたにトドメを刺した上で死ぬ覚悟があるし、この世を去る時、あなたもいっしょにあちらへ連れて行くすべを必ず見つけてみせるから、だから、」
 相変わらず僕を映してくれない絶望色の碧い瞳を覗き込みながら、僕は言った。
「どうか、これからもよろしくね。キルゲさん」

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