鍵に口づけ

柔らかい何かを拾った。
昨日見つけた鍵を使って開けた、薄暗くてひんやりした部屋の中。
あたし以外の生物がこの建物内に居たのかと、おっかなびっくり近付いてみたら、綿の詰まった人形だった。多分、クマという生物を模したもの。丸い耳とクリッとした目、首元の白い模様、ずんぐりむっくりな体。図鑑で見た事がある。こんなに小さくも丸っこくもなかったけど。でも、あちこちに継ぎ接ぎや縫い跡が見えて、なんとなく親近感。
抱えてみるとふさふさとした毛が曝された腕に触れてくすぐったい。こちらを向かせて目線の高さまで持ち上げてみると、二つの真っ黒いビーズの目に見つめられた。えっと、目が合ったら挨拶をしなくちゃいけないのよね。
「………こ、こ、こん、ばんは、」
「………」
返事は無い。そうだった。人形もクマも喋らないんだ。分かってはいたけど少し寂しい。せっかくきちんと挨拶できたのに。前足を指でつまんで振るように動かしてみると、少し遅れて返事をしてくれたように見えた。それに嬉しくなって、クマを抱えて立ち上がる。
部屋を出て、鍵を締めて、2階の自室にしている部屋に入り、内側から鍵を締める。
ガチャリという音と手応えの余韻を噛み締めた後、卓上のランプに火を灯すと、部屋全体が柔らかく浮かび上がった。足の長い机と対の椅子に、大きな古びた本棚と、一人用の小さなベッド。その脇には木製の小箱が置かれている。何もかもいつも通りだ。小箱に歩み寄り、蓋を開ける。中にはメモ帳が3冊と、沢山の鍵が入っている。連れ帰ったクマを小箱の中に座らせて蓋を下ろすが、閉まらない。ちょっと大き過ぎたかしら、と小首を傾げる。仕方がないので小箱には先程の部屋の鍵を任せることにして、ベッドの上にクマを座らせた。そして、机の上に置かれた本の一冊を手に取ると、自分もクマの横に腰を下ろす。
「………これ、知ってる?」
傍らにちょこんと鎮座しているクマに本の表紙を見せてみる。…何のリアクションも無いってことは、知らないのかも。
「………じ、じゃぁ、あたしが、読んであげる。」
そう言うとクマを膝にのせて、自分にもクマにも見えるように本を開いた。

「………お姫様は、王子様のキ、キスで、目を覚ましまし、た。そうして、ふ、二人は幸せに、暮らしまし、た…。」
めでたしめでたし…と言いながら本を閉じる。誰かに聞いてもらうなんて初めてだから、とても緊張してしまった。
本を脇に置いて寝転がる。クマが膝から転がり落ちそうになったので慌てて持ち上げて、じぃっとクマの目を見つめてみた。
「……どう、だった?」
「………」
「……す、素敵よね。」
この研究所には、研究内容におおよそ関係のなさそうな書物が、そこかしこに散在している。絵本や児童書、料理本、整頓術などなど。その中でもこの物語はお気に入りだった。先の見えない永い眠りから救ってくれる王子様が大好きで、何度も何度も読み返している。できれば他のひとの感想も聞いてみたかったのだけど、クマは喋れないから諦めるしかないようだ。しかしお構い無しに話し続ける。話しかける対象が居てくれるだけで十分だから。
「……いつか、こんな人が、あたしをこ、ここから…連れ出して、くれるの、かな。」
もしそうなら、あたしはどうしたらいいのだろう。このお話のお姫様のように、ベッドに横たわって待っているべきだろうか。そうすれば王子様は数々の試練を乗り越えて、この館に足を踏み入れ。あたしの部屋を見つけ出して、そして。
「……あ、き、キスで起きるんだ。
……ど、ど、どうしよう、あたし、やったことな、い。」
いつもの皮算用が始まった。未来の王子様のキスにどう応じるかで頭がいっぱいになってしまう。
どうするのかは大体分かっている。挿絵にあったように、お互いの唇を合わせればいい筈だ。しかし。やはりぶっつけ本番では、不測の事態に対応できないだろう。失敗なんてしてしまえば、王子様は呆れて、きっとあたしを置いていってしまう。
こうなってしまうと止まらない。頭とクマを抱えて、部屋の中をぐるぐると歩き回る。
あーだこーだと考え込んでいると、小脇に抱えたクマの存在を思い出した。
「……練習、しておいた方がいい、のかな。」
再びクマを目の高さまで持ち上げる。言葉はなく、キラキラと光を反射する目が、ただただ見つめてくるだけだ。
「……嫌、だったら、い、言って…。…もしくは、右手を、あげ、て……。」
徐々に自分の顔をクマのそれに近付けていく。
んーっと唇を尖らせて、意を決してクマを押し当てた。

「………でも、上手くいかなかったの。」
「はあ、」
「……だって、クマってあたし達とは、顔の形状が違うでしょう? 」
「ええ、」
「……だから、唇じゃなくって、鼻にしちゃったのよ…。」
「ナルホド。」
「……でもね、今思うと、それでよかったのかな、って。」
「…何故でございますか。」
「……クマは難しいけど、あなたとなら、できるって分かったから。」
「えぇっとー…」
「……まだ、人間じゃない、けど…血を飲んだ時は、クマみたいに失敗してしまう、だろうけど…でも、平面なら、そんな事ないの。」
「……」
「…あなたが平面でよかったぁ……だから、ね? あなた…」
「っいやいやいや! 構造的に可能とか以前に、こういう事は本人たちが望んで初めて行われるものでしょう!?」
「……望んでるわよ? とっても…。」
「わたくしは望んでおりません!! どなたか! どなたか助けてくださーい!!」

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