Sugared Water

夏の日差しが木漏れ日となってやさしく降り注ぐ中、久しく帰っていなかった研究所へ向かい、道無き道を行く。
沢を辿って歩けば、目的地はすぐだった筈。ろくにメンテナンスもせず世界中を旅してきたからか、かつての記憶はやけにざらついて、まるでアイセンサが壊れかけた今の視界のようだ。四肢がギシギシといやな音を立てるようになったのはいつの頃だっただろう。
やっとのことで見覚えのある建物にたどり着く。昔から来訪者の目を欺くため木々の間に隠れるように存在したその建物は、現在更に周囲の緑を色濃くし、一見しただけでは判別できない。外壁に張り巡らされた蔦を、切れ味の落ちた封雷剣のレプリカでなぎ払いながら扉を探す。自動だったはずの扉は微動だにせず、仕方なく両手でこじ開けた。
無機質な廊下に足を踏み出せば、非常用電源が働いたらしく弱々しい照明が辺りをぼんやりと浮かび上がらせる。
記憶と目の前の光景を重ね合わせながら、一直線に研究室を目指す。目当ての扉を見つけ、自動扉にパスワードを打ち込む。思考せずとも指が覚えていたため、特に苦労もなく扉の向こうへと入ることができた。そこで気づく。
……生体反応が無い。
それもそうか、と自分を納得させる。あの日からちょうど五年経った。このラボは自分が生まれた場所に違いないが、あのひとからすればいくつもある支部のダミー、その一つに過ぎないのだ。打ち捨てられたこの場所が、今の自分と重なる。否、此処を捨てたのは自分だ。あの日、あのひとと口論になった。理由は確か……そう、もっと自分を大事にして戦ってほしい、というあのひとの無茶すぎる小言に自分が拗ねたことだ。だって、自分は兵器だ。戦うことにしか存在意義が見出だせないのに、あのひとはその考え方にあまり気乗りしないようだった。そして此処を飛び出したのだ、あのひとの制止の声も聞かずに。
部屋をゆったりと見て回る。よく分からない液体が乾いてこびりついたビーカーとマドラー。そこら中に撒き散らかされた資料や設計図。自分を修理するときに使ってくれた数々の工具たち。自分が生み出された作業台。そこを指先で撫でれば、金属同士が擦れる甲高い音が寂しく響いた。
ふと、気配を感じて振り返る。そこには、あのひとがよく仮眠をとっていた部屋の扉があった。
ここには誰も居ないはずなのに、と不思議に思いながら扉を潜る。薄暗い中、ベッドがいくつか並んでいるのが見えた。一番奥のベッドが薄くふくらんでいるのが見てとれて、衝き動かされるように歩み寄った。

「博士……?」

見覚えのあり過ぎる黒衣を纏った白骨が、そこに眠っていた。アンダーリムの眼鏡も、丁寧に枕元に置かれている。
少しの期待に満ちていた呼び声が虚しく木霊す。膝から崩れるように遺体のそばに座り込む。すると、足元にノートが数冊落ちていたことに気づいた。表紙には懐かしい、こういうフォントなのかな?と思わされる几帳面そうなクセ字で『見たら実験体にするからね☆』と書かれている。
元々このひとの実験体として生まれた自分が読む分には何の問題も無いだろう、と勝手に解釈してペラペラとページをめくっていく。
驚いたのは、自分が生まれた日から日記が始まっていたことだ。戦闘データなどはおそらくラボにある巨大なコンピュータに保存されているのだろう、この日記には日常のささいな変化や気付きが記されていた。そしてそれはどれも、自分、シリアルゼロに関するものばかりだった。
例えば『今日はロボが初めて僕を呼んでくれた!……何故か駄目博士って言われたけど、嬉しいものなんだねェ』だとか、『初めての任務、心配だなァ。でもきっと大丈夫、僕の子だもの。全力でサポートしよう』『上の連中が何と言おうと、僕があの子を守っていかなきゃ!』などと書かれていた。
読み進めるうちに、自分の手が微かに震えているのが分かった。視界も何故か滲んでいく。目から溢れるそれが何なのか分からず、何度も何度も、ボロボロの制服の袖で目元を拭い続けた。
最後のページは書きかけだった。薄く震える文字が頼りなく並んでいる。

──ロボ、今きみは何処に居るんだろうね。
「……ワシハ此処ニ居ルゾ、博士」
──君の無事さえ確認できれば、今はもうそれで満足なんだけど、それも贅沢な望みかな。
「アノ陰湿ナ粘リ強サハドウシタ」
──僕はもう駄目だけど、最期くらいきみに会いたかったなァ。
「ッ……諦メヤガッタナ、ダカラきさまハ駄目博士ナノダ」
──もう僕の手で直してあげられないのが悔しい。ロボ、どうか元気でいて。僕はきみのことが……

日記はそこで終わっていた。
ロボットらしからぬ嗚咽を漏らしながらノートを閉じる。視界は先程よりも次第次第に滲んでいく。
ベッドに横たわる遺体の手を、折ってしまわないようにやさしく握り締める。
この手で、修理をしてくれた。頭を撫でてくれた。抱きしめてくれた。
大好きだった。この世で一番、優しくしてあげたいひとだった。それなのに、自分は。後悔で胸が張り裂けそうに痛む。痛みなど感じないはずの鋼鉄の体が悲鳴を上げている。
握った手を、祈るような体勢で額にあてた。

「博士……仕方ノ無イヤツダ。駄目駄目駄目博士メ」

音声が罅割れる。自分も限界が近い。

「そんなに駄目って言わなくてもいいじゃんかー」

ああ、懐かしい甘さを含んだほろ苦い声。

「博士、ろぼっとハそちらニ行ケルノダロウカ」

「もちろん!だめって言われても連れて行くよ」

「ソウ、カ……」

安心しきった声をこぼすと、そのロボットは全機能を停止した。
まるで、眠る想い人のそばを護るかのような姿で。

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