朝日と神さま

「兄貴ー、朝だぞォー」
部屋のドアをノックしながら声をかける。
返事はない。
ドアノブに視線を落としてはみるが、開けるのは躊躇われた。
家族揃っての共同生活とやらには慣れてきたが、この部屋の主である一番上の兄は、初対面の印象と変わらず近寄りがたい存在のままだ。
自分なんかと血の繋がりがあるとは思えない美貌と、目には見えない輝きを纏っているような彼は、別世界の住人として自分の中でカテゴライズされている。

でも、食事は毎食一緒にするってとーちゃんが言ってたし。
だから呼んで来いって言われたんだし。
せっかく執事さん達が用意してくれた朝飯が冷めちまったら申し訳ないし。
…連れて行かねぇと怒られるかもしれないし。

あれこれ頭の中で言い訳して、ドアノブに手をかける。
出来る限り、そうっと、音をたてないようにゆっくり力を込める。
「…入るからなァ」
ほんの少しの隙間からそう伝えて、身を滑り込ませた。
初めて入った兄の部屋は、物が少なかった。
机と本棚と一人がけのソファ。それだけ。
本当に人が住んでるのかってくらいに片付いていて、あれこれとごちゃついた部屋に見慣れた自分からすれば、少し不安になるほど寂然としている。
だが、最低限ながらも細部までこだわっているのが何となく見て取れて、兄貴の完璧さを象徴しているようにすら感じられた。なんだか居た堪れない。
早くこの部屋を出なければと、部屋のさらに右奥、ベッドルームの入り口に視線を移すと、デカいベッドが見えた。
あそこに行くまでに、この部屋を横切ってもいいのだろうか。恐らくは完璧に仕上げられているであろう兄貴の部屋を。ここは自分のような奴がいて良い場所ではない。
なぜかそんな思いが過ぎって、部屋の入り口から動けなくなった。
どうしようか。少し逡巡して、この位置から声をかけてみることにした。
「兄貴ーー、起きろォー。朝だぞー。」
…結局外から呼びかけるのとそう変わってないじゃねぇか。
自分に駄目出しをしていると、奥から声が返ってきた。

「……ウンガロ?」

………眩しいな。
ベッドの上で薄っすら目を開ける。
遮光カーテンの隙間から光が一筋漏れて、丁度顔を照らしていた。
眩しいわけだ、と思いながらも、どうする気も起こせずまた目を閉じる。
自分の父親だというヒトが食事は一緒にとか言っていたが、今日は辞退させてもらおう。

眠いし。
カーテンまで遠いし。
着替えも用意せず寝てしまったから今からだと時間かかるし。
僕の分の朝食は、弟たちが美味しく平らげてくれるだろうし。

そう言い訳をしながら二度寝を決め込もうと目を閉じる。
そもそもどうして父は食事を共にしたがるのだろうか。
彼は元々夜に生きるもので、僕達とは相容れない生態をしているはずだ。
それなのにどうして。
彼の行動はよく分からない。
全く別の場所で、お互いの存在すら知らずに生きていた僕たち兄弟を集めたことも。
急に引き合わされた僕たちがどれだけ戸惑っていることか。
家族を持てなかった僕は、彼らとどう接すべきなのかも知らない。恐らく彼らもそうだろう。
何を話す? 何をする? 何をしてあげられる?
どこまでなら近づいてもいい?
こんな考え方のおかげで、未だに僕は彼らの名前くらいしか知らずにいる。
自分で言うのもなんだが、僕らしくない。

「兄貴ーー、起きろォー。朝だぞー。」

急に耳に飛び込んできた声に、パチリと目を開けた。
この声は。
「……ウンガロ?」
「おっ! 起きたかー、兄貴ーー?」
少しはしゃいだような嬉しそうな声が返ってきた。
それにしても声がやけに遠い気がする。彼は一体どこにいるのだろうか。
視線を巡らすと、自室の入り口に突っ立っている末の弟の姿がちらりと見えた。
どうしてあんなところから。
…ちょっとおもしろいな。
「ふふっ」
「? 何かあったか?」
「いえ、なんだか、遠いなって、思って。」
そう答えながらも、声が震えてしまう。
ウンガロは、そんな僕の反応に困っているようだった。
「だ、だってよう…。勝手に踏み込んだらダメだろ?」
こんなに綺麗なのに。
その言葉を聞いて、あぁ、と思った。
僕らはまだ、お互いを何も知らないんだ。
奇妙な縁に引き合わされた家族たちに、興味がない訳じゃない。
でも気を許してしまえば、受け入れてしまえば、いつか見捨てられるんじゃないかと。
自分が近づけば相手を傷つけ、自分もまた相手に傷つけられてしまうのではないかと。
僕も彼らも、そう身構える癖がついている。
不安で仕方がないから近づくにも近づけない。
きっとみんな、そうなのだろう。
でも、この痛みを知るひとが、自分と同じ痛みを他人に与えるだろうか。
答えは、この末弟の行動に込められている。歩み寄ってみたいと強く思った。
そして、彼もそう思っているであろうという確信めいた感覚が、僕の背中を押した。

まずは長男であるらしいこの僕が、お手本を見せてあげましょう。
上手くできるかは分かりませんが。
手招いて、ドアの前でおろおろしているウンガロを呼ぶ。
「…い、いいのか?」
「どうぞ。」
そう答えてやると、恐る恐るといった足音がゆっくり近づいてきた。
寝室の入り口に差し掛かると、それが止む。
また軽く手招きして、遠慮がちにベッドサイドにやってきた弟を見上げる。
「よくできました。」
そう言って微笑うと、彼はニット帽を目元までずり下げてしまう。
帽子からのぞいた耳が赤くて、また笑ってしまった。
「……起きろよ兄貴。とーちゃん達が待ってるぞ」
少し拗ねたようにしゃがみ込んで呟くウンガロを見て、心臓がきゅうと音をたてた気がした。
どうやら、君を受け入れる第一段階は成功したようです。
さあ、次は君の番ですよ。
「カーテンを、開けてもらえますか? それと、クローゼットから着替えを」
「…自分でできるだろーー」
「出来ません。僕低血圧なんです。」
「何だよもう。」
そう言いながらも、僕のお願いに答えてくれる。
カーテンの次に彼がクローゼットを開けると、衣服の雪崩が起きた。
それに思いっきり巻き込まれたウンガロは、小山からシャツとズボンを引っ張り出すとこちらに投げてくれた。
「良いセンスですね」
ゆったり着替えながら素直な感想を漏らす。
「…兄貴は意外と…うん。」
衣服をクローゼットに仕舞い込むウンガロの言葉。これも素直な感想だろう。
詰め込み方からして、次開くときも雪崩が起きそうだ。
なんだか楽しくなってクスクス笑う。
ふと視線を上げると、ようやく閉まったクローゼットを背にしたウンガロと目が合った。
彼は目をぱちくりさせてから口を開いた。
「わ、笑えるんだ」
「勿論。僕を何だと思ってたんですか」
そうは言いつつも、自分で自分に驚いていた。
普段ならこんな風には笑わないのに。
結構失礼な事を言われた気がするのに、笑えて仕方がない。
くっくと笑っていると、あっけにとられていたウンガロも笑いだした。
「だ、だって、あんまり綺麗だから」
「そうでもありません。分かったでしょう。僕って」
「意外とアレ?」
「そうそう! そして君は意外とシャイなんですね」
僕がそう言うと、彼はまたニットを下げて紅い頬を隠してしまった。

部屋を出るとき、ウンガロが思い出したように言った。
勝手に部屋に入っちまってごめん、と。
「いいんですよ。ノックしてくれたんでしょう? それに」
家族なんですから。
「それに、何だよ?」
「いいえ、何でもありません。さ、行きましょう。」
「お、おう? 」
そうして二人連れ立って、家族の待つ食卓へ向かった。

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