お題:伝えることのできない一言










夢を見た。
すり寄る彼を腕の中に閉じ込め、その額に口付けを施す。すると彼は嬉しそうに、くすぐったいです、と笑って、お返しとばかりにこちらを抱きしめ返してきた。彼の身体は、その印象に反してとてもあたたかい。夢の中の俺はこの温度に慣れ親しんでいるようで、彼の行動に別段驚いた風もなく、緩く微笑んで彼の髪を指で梳いていた。しばらくそうしていると、彼が「好きです」と囁いた。俺は彼の顔を覗き込んで頷く。だが彼にはその反応は不服だったようで、首を横に振られた。ちゃんと言って下さい、そうせがまれて、俺は口を開いた。

そこで目が覚める。
ばちりと目を見開き身を起こすと、早鐘を打つ胸の辺りを鷲掴んで浅い呼吸を繰り返す。我ながらありえない夢だった。まず最初からおかしい。自分が知っている彼は、安易に他人に擦り寄って行ったりしないし、あのような甘えた声も出さないはずだ。口づけを贈る事も、自分たちの現在の関係的にありえない。何より、彼が囁いたあの言葉。あれはたとえ夢であっても彼の口から出ていいものではない、ような気がする。自分の理想を押し付けて形にしたような甘ったるい彼は非常に心臓に悪く、現実の彼への申し訳無さが溢れてくる。
ベッドの上で頭を抱えているとノックの音が響いた。そういえば、今日は一緒に茶を嗜む予定だった。時計を見れば丁度約束の時間。そのまま待たせてしまうのもいけないと思い、慌てて返事をする。
「どっ、どうぞ」
返事をした直後、物凄く後悔した。あの様な夢を見たあとで、彼本人に会うなど無謀すぎた。
「おや、今日はお寝坊さんなんですねぇ」
なんて、柔らかく微笑まれたら、何と答えればいいのか分からなくなる。胸の奥がきゅぅんと音を立て、喉は何かが詰まったように役立たずになってしまう。だが、何も言えずにいる自分を見て思い違いをしたのか、彼は謝罪の意を示した。
「申し訳ありません、もう少し時間に余裕を持って来るべきでした。どうも楽しみにしてしまって」
表情はあまり変わらないがどこかしょんぼりとしてしまった彼に、先程とはまた別の意味で申し訳無くなる。
「い、いや、ねぼすけな俺が悪ぃんだから気にしないでくれ。すまねぇが、座って待っててくれるか」
そう言うと素直にソファに腰掛ける彼。ちょこんとした佇まいに思わず頬が緩む。
待ってくれている彼をちらちらと覗いながら朝の支度を整えていく。彼は窓の外を静かに眺めていた。
支度を終えるついでに、戸棚から小さな缶を取り出してケトルを火にかける。
缶を持ったまま、彼の隣に腰を据えた。もちろん、少しだけ距離を置いて。
「珈琲党の貴方が紅茶とは、珍しいですねぇ」
「俺も自分で驚いたぜ。思わず手を伸ばしちまってさ」
「何か、気になるところがお有りでしたか」
「うーん、何でだろうなぁ」
理由は分かりきっているが、今は言うべきではないと、言葉を濁してしまった。
そこで一旦、話が途切れる。が、居心地の悪さは無い。むしろ朝と言うには少し遅い時間の空気と相まって、この沈黙は非常に心地よいものとなっていた。願わくば彼もそうであってくれと、隣をこっそりとうかがう。
肘置きに頬杖をつく彼の横顔は、とても穏やかだった。普段なら色眼鏡に隠されている涼し気で怜悧な目元はゆるめられ、口角も少しだけ持ち上げられて。
自分と二人きりの状況でこんな表情を見せてくれる事にたまらなく嬉しくなる。
今だったら、本当の理由を打ち明けられそうな気がして口を開いた。
「…無意識に、あんたとコイツを重ねちまったんだ」
彼が、小さく首を傾げる。
「あんたに触れることは、俺にはできない。だからコイツは、その身代わりだ」
「どうして触れられないのでしょう」
「どうしてって、そりゃぁ…」
言いかけたところで、手の甲にそっと布の感触。奥に秘められた温もりから、あぁ彼の手だな、と感じ取る事ができた。と同時に心臓が跳ねる。
「お嫌ですか?」
静かに問いかける彼は眉尻を更に下げて、今にも泣きそうに見える。そんなわけ無いと分かってはいるのだが、確かにそう見えてしまった。
思わず、控えめに触れてくれていた彼の手をとってぎゅっと力を込める。
「嫌なはずねぇさ。でも、あんたは平気なのかい」
「えぇ。こちらこそ、嫌なはずがありません」
他者との接触を極端に厭う彼が、ここまで許容してくれている。
そこで、あの夢を思い出した。夢の続きはどうなるはずだったのだろう。
夢の中で彼にせがまれたあの言葉。あれを今、口にしたらどうなってしまうのだろうか。
視線が絡む。彼の瞳が少しだけ潤んでいる気がするのは、気のせいかも知れない。だが、握りしめた彼の手は微かに震えていて、彼の心情がそれこそ手に取るように分かる気がした。
「あ、あのさ……」
「はい」
律儀に返事をしてくれることが、とてつもなく貴重な体験のように感じられる。こんな邪な気持ちでいる自分が居たたまれなくなるくらいに。それでも、伝えたい思いがあった。彼と出会ってそう短くない月日が流れている。その中でいつの間にか育っていたらしい思いは、俺の中に当たり前のように根を張り、今更手放すことなど到底できない。このままひた隠しにできることが最善だったが、もう、限界だと思った。
「あんたのことが……その……」
アーモンド型の碧い目が真摯に見つめてきてくれる。それに後押しされるように口を開いた、その時だった。
耳を劈くような甲高い音が部屋中に響く。それが先程自分がコンロにのせたケトルの音だと気づくのに数秒を要した。
「あ」
短く声を上げて、彼はすくっと立ち上がった。その拍子に握りしめていた手が、するりと逃げていく。離れてしまった体温と骨張った手の感触を惜しむ様に握って開くという動作を何度か繰り返す。そうしているうちに彼はケトルのもとへ辿り着き、慣れた手付きでお茶の準備を始めた。
深く溜息をひとつ落とす。
今思えば、あの直接的な言葉は、今の自分たちには刺激が強すぎる気がする。焦りは禁物だ、と自分に言い聞かせて、むしろ運が良かったとすら思うようにした。
「もうすこしでしたのに」
給仕場に立つ彼が、何事かを呟いた。
独り言のようなそれを聴きつけて訊ねれば、こちらにくるりと振り向いて彼は奇麗に微笑んで見せた。
「お気になさらず」
あの夢がそう遠い未来ではないと知るのは、もう少し後のこと。

ナク+キルへのお題は『伝えることのできない一言』です。
お題元様はこちらです。
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