タイトル無し

その男の奥底には、幼子が棲んでいる。
仄暗く先を見通せぬそこに在るのは、幼子と、彼を抱く鳥籠のような形状の”檻”、ただそれだけだ。
檻の扉は開いている。
しかし幼子は逃れようとはしない。何故なら檻へと繋ぎ止める鎖が、彼の胸元から伸びているからだ。それは身じろぐ度に錆びついた甲高い音を立て酷く耳に障る。
彼は知っている。檻と自分は不離一体、決して切り離すことはできないと。
ふと気づいた時にはここに居て、繋がれていた。初めこそ逃れようと足掻いた。大声で助けを呼んだ。しかし胸元から伸びる鎖を引けば、凄まじい痛みが彼の身を劈く。その時否が応にも、これは自分の存在そのものを揺るがすものであると直感せざるを得なかった。
そう諦め、悟ると同時に、意識が檻の外に向く。そして、自分以外は誰もいないはずのその場所から、人々が歩き回っているような雑踏が聞こえてくる事に気付いた。
きょろきょろと視線を巡らせていると、檻の前に二つの影が突然現れた。それらは幼子の手を取って、外に連れ出そうと躍起になっているようだった。一つは力ずくで幼子の腕を引き、もう片方は金切り声で外に出るように捲し立てる。激痛に苛まれた幼子が死に物狂いで抵抗すると、それらは幼子を突き飛ばし、彼にはまだ理解できない暴言を吐いて去っていってしまった。
理不尽を学んだ幼子は、檻の扉を自ら閉ざし、一際奥に座り込んで胸元を守るように小さく丸くなった。
そうして外部の雑踏からも意識を逸し、ただすべてを拒絶した。とにかく何もかもが恐ろしかった。

──────

どれだけの時間が過ぎただろうか。幼子はいつの間にか眠りに就いていた。
先の見えない闇から呼び声が聞こえ、彼は目を覚ます。

「其処で何をしている」

ざらついた低い声は言った。あちこちに反響して声の出処が判らない。雑踏は止んでいた。
幼子は応えるべきか逡巡し、少しの沈黙のあと口を開いた。久しく声を出していなかったからか、酷く掠れた声で『なにもしていません』とだけ答えるに留まる。
すると、声が言う。

「外に出ようとは思わぬのか」

幼子は力無く首をふるふると横に振った。
『こうしていればあんぜんなのです、なにもはいってきませんから』そう言うと幼子は不器用に口端を持ち上げた。自嘲的とも言えそうなその笑みに、声は地を這うような笑い声をあげた。

「──自ら籠の鳥となる、か。……良いだろう。そうしてずっと微笑んでいなさい」

身を灼くようなその孤独、お前は美しい。
そう告げられ、幼子は恋をしているような、茫然自失となっているような、どちらにせよその齢にそぐわぬ恍惚とした表情を見せた。

──────

また眠っていたようだ。
胎児のような姿勢で硬質な床に横たわっていた幼子は、先程の会話は夢だったのだろうかとおぼろげに考えながら身を起こした。
目をこしこしとこすり、視線を上げる。すると幼子は怯えたように身を引いた。背に冷たい檻の温度を感じ、少し安堵したのか息をつく。
幼子の視線の先には、檻の扉の前に立つひょろ長い人型の影が在った。影は苦笑したような音を溢すと、幼子に声をかける。

「そんなに怖がらなくても、大丈夫だぜ」

低いがどこかやさしげな響きの声に幼子はきょとりと小首を傾げた。
影は檻の前にしゃがみ込むと、ちょいちょいと小さく手招きをする。幼子は依然檻の奥で縮こまったまま、その正体を見定めようとしているかのように、じっと影を見つめた。

「ま、怯えちまうのもしかたねぇか」

影が肩をすくめる。その仕草を見て、幼子はヒッと息を呑んだ。あきれられた、諦めれらた、見捨てられた。幼子の胸中にそんな思いが去来する。この後に来るであろう大きな恐怖と痛みに、幼子が頭を守るように丸くなる。
それを見た影は、物憂げな溜息をついた。それを聞いて更に小さくなる幼子。

「……無理にそこから出ろとは言わねぇよ」

こぉんな真っ暗な場所、俺だって怖いからな。
そう言うと影はその場に胡座をかいた。本腰を入れてここから去るつもりはないと主張されて、顔を恐る恐る上げた幼子は不思議そうな顔をした。『あなたは』と口にしかけて慌てたように口元を手で押さえる。あなたは、わたしを痛くしませんか。そう続けるはずだった。だが、それを訊けば目の前の影が豹変するかもしれない。幼子はかつて自分を痛めつけた二つの影を思い出していた。
いま目の前にいる影は膝の上に頬杖をつくと、幼子をじっと見つめているようだった。文字通り”シルエット”であるため、彫りが深い顔であること以外は表情すら分からない。幼子はもじもじと身動ぎをした。
すると影は徐ろに言った。

「あんたに何が起きたのか、あんたが話したくなるまで聞かずにおくよ。代わりに俺の話でも聴いてくれないか。なんならほら、飴ちゃんもあるぜ」

ここまで来て、ようやく幼子はこの影は自分を損なう恐ろしい存在ではないのではないかと考えだした。ジャラリ、と金属音を立てて、幼子は少しだけ出口に向かって移動した。……決して飴玉に釣られたのではない。ただ、興味を惹かれたのだ。暗い雑踏の中、態々檻の前で足を止め、幼子に飄々と語りかけてきた稀有な存在に。
影は懐から可愛らしく包装された飴玉を数粒取り出すと、檻の入り口にころころと転がした。そして幼子に色んな話をして聴かせた。
中でも幼子の心を掴んだのは、化け物と戦う戦士たちの話だ。化け物に襲われた家族や仲間のために己を奮い立たせ、鍛え、化け物を滅する。
影が話し上手なのもあってか、いつしか幼子は両手を床について身を乗り出すようにして聴き入っていた。そんな幼子に影はふっと微笑いをこぼした。幼子もつられたように、へにゃりと微笑む。影が「おっ」と声を上げる。

「笑うともっと可愛いんだな」

その言葉を聴いた幼子は、はにかむように微笑んだ。

──────

眠りから目覚めると幼子は、まず自分のズボンのポケットを探った。そこに数粒の飴玉が存在していることに心から安堵する。あれから急に睡魔に襲われた幼子を寝かしつけるようにとんとんとしてくれたあと、あの影は「また来るからな」と不安げな幼子をあやして去っていった。
ふと、視線を感じて身を起こしてみると、どうやら小柄な影が幼子をじーっと見つめているようだった。
幼子はまた身構えた。その反応に、影がムッとしたのが分かり、余計に怯える幼子。それにまた苛立ちを隠そうともしない影。幼子はまた震え──

「って、これじゃ堂々巡りじゃないっ」

喜怒哀楽で言うなら”怒”を小柄な全身でアピールする影を見、幼子は小首を傾げた。……怖く、ない?
幼子はおずおずと口を開いた。『……だいじょうぶですか?おねえさん』。
地団駄を踏んでいた影が動きを止め、またじっと幼子を観察している。
そして。

「なに呑気に笑ってんのよ」

鈴を転がすような声で憮然としながら告げる影。幼子は答える。『先ほど、笑顔をほめていただきました。笑うことは良い行いなのでしょう?』。
影は腕組みをした。足先でトントンと地面を叩きながら、幼子に問う。

「あんたはそれでいいワケ?」

幼子の笑みがこわばる。それに追い打ちをかけるように影が言う。

「楽しい、嬉しい、ありがちだけどそういうときにひとは笑うものでしょ。あたしが怖いなら無理に笑わなくたっていいんだよ」

幼子が消え入りそうな声をこぼした。『おねえさんも、先ほどの方も、こわくはありません。だって、わたしに痛いことしないでしょう?』。
半ば祈るように告げられた台詞に、影は腕組みを解いて大きな溜め息を一つ落とした。
幼子は更に続ける。『こうしてわたしと向き合ってお話してくださる。それだけで笑うに十分な奇跡だとわたしはおもうのです』。
影の瞳があるであろう位置をしっかりと見据えながら、次第にしっかりとした声になっていく。
黙って耳を傾けていてくれた影は「……調子狂うなぁ、もう」とぼやくと、幼子の手にある飴玉を一つひょいと取り上げて言う。

「痛いとき、苦しいとき、泣きたいときはちゃんと泣くんだよ?じゃなきゃあたしが泣かす」

幼子は今にも涙を零しそうに眉尻を更に下げた。それでも微笑みは絶やさなかった。

──────

またふわりと覚醒する。と、ほぼ同時に幼子は飛び起きた。
檻の中に影がいる。自分のテリトリーだと思い込んでいた場所が侵食されている。そう思ったが、何か違う気がした。
件の影はというと、呑気に「お、起きたな」と嬉しげな声を発している。
幼子は恐る恐る声を絞り出す。『どうしてここに……?』。

「いや?開いてたからいいのかと思って」

幼子はたっぷり10秒ほどあっけにとられたあと、恐怖心も忘れて影を外に押し出そうと試みた。が、影にも自分と同じように体温があることに気づき、咄嗟に飛び退いた。──生きている。自分よりよほど生きた体温がそこに在った。これまで精神的にも身体的にも遠ざけてきた存在の中を駆け抜ける赤色を想像すると、途端に怯えが来た。
外の雑踏に意識を向ける。アレもコレも、すべて生きている。気づきかけながらも今まで見て見ぬ振りをしてきた事実が何よりも恐ろしいことのように思えた。それこそ、自分の身が損なわれることよりも。
急に俯いて縮こまり震えだした幼子に、影が声をかける。

「お、おい。大丈夫か」

ぶっきらぼうながらも存外気遣わしげな影の声を聴いて、幼子は縋り付きたい衝動に駆られた。目の前のぬくもりを抱きしめて、大声で泣きたい。何故かは分からないが、この影は幼子が突拍子もない行動に出ても、怒らずに受け入れてくれるような気がした。
だがそれと同時に、この影にだけは縋ってはいけないと何者かが脳内で囁く。情けをかけても、かけられても駄目だ。
どうして?……分からない。
震えながら自問自答していると、頭にあたたかく柔らかい何かが載せられた。少し顔を上げれば、影が手を伸ばして幼子の頭を優しく撫でてくれていた。髪の流れに逆らうことなく、さらり、さらりと。
どうしようもなくあたたかくて、涙がぼろぼろと溢れて止まらなくなる。

「……そんなカオして微笑わないでくれ」

影が困ったように言う。幼子は涙もそのままに、困ったようにくしゃりと笑った。

──────

檻の残骸の中心に、幼子が眠っている。否、既に事切れている。
その胸元と檻を繋いでいたはずの鎖は、無惨にちぎれてしまっていた。
その光景を眺めるひとつの影。カランコロンと足音を立てながら、残骸へと近づいていく。

「やっと自由になれたっていうのに」

皮肉なものッスね。

「檻を破壊した”彼”を恨みますか」

返事など有ろうはずもないその場所で影は軽い調子で語り続ける。

「”彼”にとっても苦渋の決断だったと思いますよ」

いつかの目覚めを待つようなむくろのそばにしゃがみこんで、その表情をのぞく影は、「あーあ!」と態とらしく肩を竦めた。

「微笑った顔もとびきり愛らしかったのに」

そう溢しても、幼子が他者に微笑みかけることはもう二度とない。

コメント