手放すつもりはまったくないの











しまった、と思ったときにはもう遅く。
紙一重で避けたはずの虚の爪先が、私から真紅の世界を奪っていった。
すると、生まれつき脆弱なこの眼は月光にすら灼かれ、戦闘中にもかかわらず無様に瞼を下ろしてしまう。
虚の爪が風を切る音を頼りに追撃を避けていく。
だが、分裂した虚たちの中の本体を追い、攻撃を仕掛けるのは少々骨が折れた。
聖隷を使うか、否、このような三下相手に。むしろ己の力量不足が露呈したのだから、潔く自刃し陛下に聖文字をお返しすべきか。逡巡していたその時。
「ばか、何ぼさっとしてるのッ!」
すぐ隣に、馴染み深いとは言い難いが覚えのある霊圧を感じた。
これは、今回初めて組むことになった彼女のものの筈だ。
「バンビエッタ」
確かめるように名を呼ぶ。視覚を使えない事は声帯にも影響するのかと思うほど、手探りのような掠れた声になってしまった。
おそらく彼女が不思議そうにこちらを見上げたであろう気配がした。
「あんた、目が……?」
彼女が自身の能力を使ってくれたのだろう、耳を劈くような爆発音が立て続けに響いている。それでも、彼女の透き通った声は聞き取ることができた。

「ん」
戦闘後。バンビエッタが何やら声を発した。
言葉としての意味は持たなかったが、私に向けられていることは何となく分かった。
どういう事かと、目を閉じたまま首を軽く傾げる。
「ん!」
今度は強く声を発したかと思ったら、突然の右手の違和感に慄いた。
思わずひゅっと息を詰め硬直する。白手袋越しに、鞣し革のグローブらしいしっかりとした感触。それときゅっと軽く力を込められているのが判り、ああ、手を握られたのだなと他人事のように思う。それにしても、なぜ?
理由も判らないまま手を取られると言うのは些か居心地が悪い。やんわりと解こうとすれば、より強く握り込まれた。
「そのままじゃ野営まで戻れないでしょ」
確かにその通りだ。しかしながら、我々星十字騎士団にこのような触れ合いは不要であると私は考えている。というよりも、それが不文律として騎士団の根底に存在している筈だ。それにもかかわらず、彼女は手を離してくれない。困惑しもたつく私への苛立ちからか先程よりも力が増しているくらいだ。
「手を引いていただかなくとも、貴女の霊圧を追って行きますよ」
「なっ!」
バンビエッタはひっくり返ったような声を上げた。そしてすぐにつんけんした口調で言葉を返してくる。
「生意気言わないでよ。雑魚相手に苦戦してたくせに」
「そうですねぇ」
ふむ……と顎をさすり思案する。
「ですが、この状態でみなの前に戻るおつもりで?」
「うん」
あっけらかんとした返事に拍子抜けしてしまう。
何が狙いなのだろうか。ますます判らない。
私闘は禁じられているものの、虚との戦闘に乗じて気に食わない者を消す、という行為が団内で罷り通ってしまっているというのも嘆かわしいが事実だ。
今回の任務で初めて組んだが、彼女の”ウワサ”は聞いたことがある。この騎士団の風土を考えれば、彼女が私を徒に殺すことも十分有り得るように思えた。私の聖文字は滅却師には無力で、なお且つ今の私は弱みを曝け出してしまっているのだから。
それに。
「妙齢の女性と手を繋いで歩く事が許される年齢ではないのですよ、私は」
そう本音の一部を吐露すれば彼女は、「あー……」と納得したようなしていないような微妙な相槌を打った。
かと思えば、クンッと手を引かれる。バンビエッタが握った手もそのままに歩きだしたのだと悟り、仕方なくあとに続く。
「あの、話聞いてました?」
「このあたしが直々に手を繋いであげてるんだから口答えなんて許さない」
「……一体何が目的なのですか」
そう訊ねれば、彼女が立ち止まりこちらを振り向いた気配がした。
「あんたこそ、さっきから何をまごついてるの」
「役に立たない騎士など斬り捨ててしまえばよいものを、と思いまして」
「……ふざけないで」
「陛下なら迷わずそうなさるでしょう」
勿論、今の貴女にもその権利はあるはずです、私が貴女の足枷となったのは事実なのですから。そう言葉にし終わる直前に頬に強い衝撃を受けた。はたかれたのだとすぐに判った。
「アンタはそれで良いワケ……!?」
こくりと首肯すると、彼女が踵を返し前進しだした。溜息をひとつ落とし、手を取られたまま歩みを進める。振り解こうかとも思ったが、バンビエッタの憤りの理由に興味が湧いてしまった。
かと言って、どう訊ねればよいのか判らず沈黙を貫いたまましばらく歩き続ける。
先に口を開いたのはバンビエッタだった。
「……その目、生まれつき?」
「はい」
「ふーん……」
また沈黙。
「よく騎士団に入れたね」
「ありがとうございます」
「別に褒めてないからっ」
沈黙。
「あの、」
私から話を切り出すと、バンビエッタはその場で急に足を止めたため危うくぶつかるところだった。
「なによ」
拗ねたような口調が年相応で愛らしいという感想が一瞬脳裏を過る。が、口には出さない。出してはいけない。馴れ合いは不要だ。
「先程から、何か御不満ですか」
「……あたし、あんたみたいな奴大ッ嫌いなの」
凛とした声が、静寂の中に響く。彼女の台詞に、私の脳内には疑問符があふれた。
「ならば見捨てることもできた筈」
「そういうとこ!結局死ぬ理由を他人に求めてるんでしょ」
死。そんなものへの畏怖や渇求などとうの昔に手放した。今はただ只管陛下の御為に。
私が何も言わないからか、バンビエッタは更に言い募る。
「今絶対”陛下の為に”、とか考えた。違う?」
図星をつかれて本当に言葉に窮する。
「死にたがりを他人のせいにして逃げを打つ。どうしてなのか、なんて訊いてあげないし、死ぬことも許してあげない。少なくとも、あたしの前では」
「……死のうなどと考えたことは、」
「あるでしょ。現にさっきだって反撃する隙はあったのにしなかった」
あんたの中に迷いがあったから、でしょ?
言いながら、バンビエッタは私の頬をそっと撫でたらしい。突然の事にびくりと肩を竦めてしまう。
「あ、貴女に何が分かるのです。全ては陛下の御為に、そう言い聞かされてきたにもかかわらず、戦場で直接戦果を上げる能力に目覚められなかった私の何が……っ」
これ以上は言葉を続けられない。話せば話すほど自分の惨めさに辟易する。私の半分ほどの年齢であろう少女相手に何を躍起になっているのか。
声が震え目頭が熱くなったのは気のせいだ。
「ちょっと、泣かないでよね」
「泣いてなどいません」
私の頬に触れたままだったバンビエッタの指先が、目尻の辺りに移動する。思いの外やさしく拭われ、ひやりとした感覚に、彼女の言葉が事実なのだと思い知らされる。ああ、なんて情けない。消えてしまいたい。
「……ねぇ、陛下の為に死ねるって言うんなら、あたしの為に生きてよ」
きゅうっと、握られた手。密やかに囁かれた台詞。ひとりの少女によって与えられる甘い甘いそれらは、今の私にはあまりにも魅惑的過ぎた。
「あたしの滅却師の誇りにかけて、あんたを死なせたりしない」

あれからしばらく歩き続けて。
「何故あのような約束をして下さったのですか?」
「それを女の子に言わせるの?」
ムスッと返された言葉に首を傾げた。
また歩みを進めれば、遠くに多数の気配を感じ取った。陣地が近いらしい。
「手、離さないのですか?」
「……さっきから、乙女心が分からなそう、っていう予想を裏切らない発言やめてよね」
彼女の言葉も理解できなかった。この時は。







コメント