月の中の男





「『月の中の男』って、しってるかい?」
自分の斜め前に腰掛けている男に向かって言葉を投げてみる。向かい合わせに置かれたソファに腰掛けたアスキンの対角線上で、先程からずっと長から与えられた資料を読みふけっていたキルゲは、アスキンが予期していたよりも早く返事を寄越してきた。
「えぇ。神によって月に閉じ込められてしまった男、でしたっけ」
「おや、意外だねぇ。」
答えを聞き、大袈裟に目を丸くしてみせたが、残念ながら未だ視線を頁に落としたままのキルゲは平坦な不平を漏らしただけだった。
「意外、とは。少し心外ですね。」
「そりゃあすまねぇ。アンタお伽話とかキョーミ無さそうって思ってたからさ。」
「子供のうちに一度は読むものでしょう。興味があろうと無かろうと。」
「ま、皆そんなもんだよな。」
肩を竦めてみても、目の前の男はそれを見てはいない。だが、明らかに話半分とは言え返事をするということは、気を悪くしているわけではなさそうだとアスキンは思う。本当に話をする気がないのなら、分かり易い愛想笑いを浮かべてお引取りを願われるか、失礼と言い残して去ってしまう筈なのだ。もっとも、今の二人の関係性から言ってその可能性はかなり低いと踏んではいるのだが。
「それが、何か。」
ようやくキルゲがアスキンを見た。が、資料は未だ開いたまま膝に置かれている。ふとした拍子にまた視線をそこに落としてしまうかもしれない。なんとか現状を維持したいと思い、アスキンは慌てて口を開く。
「いや、その男って本当にいたのかなぁーとずっと気になっててさ。」
「ただのお伽話ですよ」
「その答え、言っちゃなんだが夢が無いねぇ」
俺は居たと思うんだがなぁ、と続けたアスキンの言葉が気になったのだろう、キルゲが口元にこぶしを当てて小さく唸った。そしてソファに深く腰掛け足を組み、手すりに頬杖をつく。話を聞く姿勢をとってはくれたが、少し挑戦的な雰囲気を醸し出している。だが、自分の狙い通りに先程まで膝の上に陣取っていた資料が机上に移動させられた事にアスキンは少し得意になった。
「お伽話っていうのは現地の逸話を元にしてたりするんだぜ?」
「成程。しかしそれだけでは男が実在した理由にはならないのでは?」
「ま、そうなんだけどねぇ、」
そこで言葉を切り、アスキンは上目遣いにキルゲを見た。にやりと笑んで見せると彼は不思議そうに小首を傾げた。
「男が月に閉じ込められちまった理由、覚えてる?」
「いいえ。どうにも印象がうすくて。」
「はは。理由はな、働き過ぎだよ。」
それを聞いて常なら怜悧に細められているはずの目がきょとんと見開かれる。嘘をついて取り繕うことも出来るのに律儀に反応を示す、キルゲのこういった真正直なところをアスキンは好ましく思う。
「働き過ぎ?」
「そ。安息日にまで働いた木こりの男は、森で出会った妙な奴に言われるんだ。今日は神サマが世界を創って休まれた日だよ、ってな。それに対して、男はケンカ売っちまったんだ。だから何だ、俺には関係ねぇぞって。」
アスキンが身振り手振りを混じえて演じて見せる。「妙な奴」の台詞は人差し指を立ててお説教をする教師のような口振りで、対する「木こりの男」の台詞は唇を尖らせて拗ねた子供ように。言葉の最後に悪戯っぽく笑ってみせると、キルゲも口元に小さく笑みを作った。
「…相手が実は神なのでしたっけ」
「そうそう! んで、怒った神さんが、じゃぁずっと薪を運んでろーって男を月に閉じ込めちまうんだ。」
「教訓めいていますねぇ。」
キルゲは小さく息を吐いた。たかがお伽噺と高をくくっているのか、教訓と言いつつも彼の言葉には己の身を省みようなどという殊勝な意は含まれていないようだった。単に普遍的な事実を感想として放っただけだ。現に掛けていた色眼鏡を手にとってレンズを拭いてなどいる。
「昔話なんてみんなそんなもんだろ?」
「ええ、まあ。で、それを私に話す貴方の意図は?」
その瞬間、キルゲの視線が資料に移った。そろそろ話が終わる頃だと結論づけたのだろう。眼鏡を掛け直す為に持ち上げた右手を、そのまま机上の紙束に伸ばそうとする。ここまで来ておいてそりゃないぜ、と思ったアスキンは思わずその手を己の左手で止めた。白手袋越しに彼の低めの体温を感じ取り、キルゲは思わず身震いした。しかし無理やり振り払うような事はせず、やんわりと手をずらし定位置である膝の上に戻し、気まずそうに少し顔を背けた。それらの数瞬の行動を見守っていたアスキンは一種の感動を覚えた。少し前なら、他人の体温が感じられるような状態に陥れば反射的に手を振り払われていたはずだ。悪いことをしてしまったとも思うが、それと同じくらいに嬉しい。意図せず浮かぶじんわりとした笑みを隠そうともせず、人差し指を立てて、キルゲの目を正面から見つめる。
「分かんだろう。今日は何の日だ?」
「…休暇日、ですね。」
「そう! それもスッゲー久々だ。それなのにアンタは…次回の任務の資料を読んでいる。」
両人差し指をキルゲに向けてついでにウィンクして見せる。別にお説教をしたい訳ではないので精一杯の茶目っ気を利用してみれば、サングラスの向こうで彼がぱちくりと瞬きをするのが見えた。
「いけません?」
「休暇日は誰が与えてくれたんだ?」
待ってましたとばかりに次の質問を投げかける。キルゲは組んだ足先に視線を落として、しばらく沈黙した。答えに迷っているわけではなく、その先にあるアスキンの意図を汲み取ろうとしているのだった。そして、ある合点がいったのか、キルゲがゆっくりと口を開く。
「…陛下、ですね。」
ここまで至ればあとはなし崩しだとアスキンは率直に述べていく。
「陛下と言やぁ、俺達にとっての神さまだろ。」
先程の質問で納得済みのキルゲが言葉を続ける。
「あぁ。それは、なんと畏れ多いことをしていたのでしょう。と、いう事ですか。」
「安息日にまで働いて、俺には関係ありません、なんて…」
「言えませんねぇ。」
「だろ。少しぐらい休んだって、誰も文句は言わねぇさ。むしろ、今日はその逆だ。ゆーっくりカフェ・オ・レでも飲もうぜ。」
「では、ロバートに頂いたお茶菓子も出しましょうかねぇ。」
溜息を吐いて、キルゲは資料を手に取った。一瞬のその動作にアスキンはどきりとしたが、書棚に丁寧に仕舞われたそれを見て、小さく優越の笑みを浮かべた。
今日くらいは、月の外に出したって構わねぇよな。神サマよ。






参考
“Der Mann im Mond”
『Deutche märchen und sagen (1)』




カフェ・オ・レを飲みながらのおまけ



「改めて考えると怖い話だよなー。」
「童話なんて大抵はそのようなものでしょう。」
「身も蓋もねぇなぁ。だってよ、昔本で見たけど月なんて砂と岩ばっかりだし、人っ子一人居ねぇんだぜ? 」
「自分の為だけに誂えてくださった檻なんて素敵じゃないですか」
「…そういう見方もあるねぇ確かに。でもさ、永遠に、出られないんだぜ? 敬愛する神さんにも会えない。」
「主は我々の中に、とは言いますが、日常のうちに見出すことが困難になる時もありましょう。ですが、神にのみ許されたとでも言うべき領域に収監されている間は、主の存在を自分の全てで感じていられます。しかもそこには自分一人なのですから、その幸せを独り占めできてしまうのですよ。」
「罰としての効果が発揮されないねぇ。ずぅーっと独りなんて、俺だったら耐えられねぇけどなァ。」
「その言い方ですと、一人でなければ耐えられる、とも聞こえますねぇ。」
「んー、まぁ概ねその通りだぜ。話し相手が居りゃそれがどんな奴でも少しは退屈もしのげるだろうし。あとはアレだな。今みたいな甘めのカフェ・オ・レとお茶菓子がきらさず用意されてりゃ文句無しだ。弱っちい俺らみたいなのを閉じ込めとくんだからそれなりに気にかけてもらえねぇと早々に死んじまうぜ。」
「貴方、死に辛いのではありませんでした?」
「そうだけどそうじゃァないんだな。俺が言ってんのは精神がって事。」
「精神?」
「そう。どんなとこだろうが、一人っきりで閉じ込められてたら精神が死んじまうって事」
「ふむ…」
「ま、俺らは幸い仲間がいるからな。えらく物騒だが。あんた達となら閉じ込められてても構わねぇと俺は思うぜ。あんたはどうだい?」

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