「βだからといって、見縊らないでいただきたい」

ふた×男にご注意。

R18ご注意。

──────

どこからか、香りがする。
ふとした瞬間に、意識しないと分からないくらい微弱な、甘い香りが。

目の前で下卑た笑みを浮かべている男にカトラスを振り下ろす。
かすかに漂っていたはずのあの香りは、噎せ返りそうな血の臭いに掻き消されてしまう。
……こいつも違った。

「ふぅん。香り、なぁ」
リルトットは気怠げな声を上げた。いかにも興味の無さそうなその態度に若干のもどかしさを感じつつも、相談している側であるバンビエッタはその先の言葉を待った。
「どっかのΩがフェロモン垂れ流してんじゃねぇの?」
「そういう…なんて言うのかな?押し付けがましさ?はないの。ほんと、うっすら」
「ココにΩがいる訳ねぇもんなぁ。というか、」
ソファにうつ伏せに寝転がり棒付きキャンディを齧っていたリルトットは、頬杖をついてバンビエッタをキャンディの棒で指し示した。
「すぐ殺しちまうから分かんなくなるんだろ」
「どういうこと?」
「だから、匂いそのものは共通してるんだろ?だったらその大本を辿んねぇと。香りがする奴がいたら探るんだよ。どこの所属かとか誰と話したかとか。」
リルトットが語るのを、バンビエッタはバツが悪そうに聞いている。
「……気付いてたの?」
「何が」
「私が香りを追ってたってこと」
「いや知らねぇけど」
リルトットはころりと寝返りを打った。
「まぁ、ココに来てからずっと顔”だけ”の奴ら狙ってたお前が、急に見た目気にしなくなったから、何かあるな、とは思ってたんだよ」
そこまで見抜かれていたのかとバンビエッタは渋い顔になった。
背もたれの方を向いているリルトットはそのまま続ける。
「次狙うときは少しだけ泳がせて見るこった」
もうこれ以上は何も言うことはないとでも言うように、リルトットはヒラヒラと手を振る。
バンビエッタはどこかそわそわしながらその場を去ることにした。

──────

両親の口癖は「βにだって無限の可能性がある」だった。
αの父と、同じくαの母。彼らの元に生まれた私は、不甲斐ないことにβだった。元来αを多く輩出する一族にβの居場所がある訳もなく、私は幼い頃から皮肉を言われたり、存在そのものを黙殺されたりするのが常だった。親族の集まりで針の筵にされる両親や同じβの子を持つ親戚を見ては、自分の情けない生まれを呪った。それでも、両親は私を見捨てることもせず育ててくれた。時には子供心にこれは酷い、と思わせるような無茶な鍛錬を強いられたが、それも私の将来を思ってくれての事だと理解していたため反発する気は無かった。
幼い私は滅多に泣いたりしなかったが、やはり弱気になる時はあった。そんな時両親は必ずと言っていいほど冒頭の台詞で私を励ました。
熱い目頭をぎゅうぎゅうと拭う幼き日の自分を思い出す。

「ああ、泣かないでくれ愛しい子よ。いつかこの日の悔しさを活かすときがきっと来る」
父はしゃがんで小さな私に視線を合わせると苦く微笑んで言う。
「……でも。しょせんわたしはべーた、ですから」
これは親戚からの受け売りで、幼い頃の私の悪い口癖だった。
父は私の頭をがしがしと撫でた。
「愛する息子にそんなことを言われたら、父さんも泣いてしまう。いいか、お前は頭もいいしこの年でもう神聖滅矢を撃つことができる。これはαもβも関係ない。紛れもなくお前の才能と努力の賜物だ」
父は私の背後に立つ母に顔を向け「母さんも何か言うことはないか?」と言った。
母は私の肩に手を置いて冷静な声で告げた。
「強く生んであげられなかったこと、謝ります」
「かあさま……」
余計に涙が溢れてくるのを、苦笑気味に父が拭ってくれる。白手袋の奥の父の体温が安心感を齎した。
「ですが、頑なに自分を卑下するのはお止めなさい。その様な子に生んだ覚えはありません。私とこの人との息子なのですから、いつでも胸を張ってシャンと前を見据えるのです」
そうすれば、見えてくるものもきっと在るはずですから。そう言うと母は、控えめに私の頭をぽんぽんとたたいた。
すると父は「そうだぞ!」と顔を輝かせた。そして。
「諦めてはいけない。βにだって無限の可能性があるのだからな!」
今考えれば、凡庸なβに対して荒唐無稽な絵空事を、と思いはするものの、当時の私は確かにこの言葉で再び奮い立つ事が出来ていた。

そして現在。私は滅却師ならば目指さぬ者は居ないと言われる星十字騎士団に所属し、その上自分の部隊を持つことを許されていた。私の主な任務は、滅却師の天敵である虚を捕らえ、団内の研究機関に引き渡すというものだ。攻撃の殺傷能力がそこまで高くなく、陛下から賜った聖文字の能力も捕縛に特化したものだった私には天職だと考えている。
今日も現世に赴き、死神たちが現れる前に虚を狩って戻ってきた。
あとは陛下へのご報告のみという時に、部下の一人に声をかけられた。彼はもじもじと指をこすり合わせて口を開きかけては止める、という仕草を数秒間繰り返し、意を決したようにやっとの事で声を発した。
「あ、あの!隊長、出過ぎた言葉を申し上げる事をお許しください」
「何です」
「今朝から気になっていたのですが、隊長、お体の調子があまりよくなさそうで……ずっと心配で……」
ああ、まただ。ここ数ヶ月は何事も無かったから油断していた。まさか末端の兵にまで気付かれるほどだったとは。何たる不覚。
私は内心で頭を抱えながら、部下に何と返すか考えた。そして大体”こう”なったときの定型文を使うことにした。
「問題ありませんよ。お気になさらず」
部下がこれ以上何かを言う前に、踵を返してその場を離れる。実は昨夜から少し頭が重かったのだが、熱も無かったため少しだけ無理をして遠征に参加したのだ。
私はある歳から数カ月おきに風邪を引くようになった。いつも微熱と倦怠感で済むため特に医者にかかることもなく今日まで来てしまったが、部下にうつす訳にも行かないため早々に距離をとった。なにより、この風邪を引いたときの彼らの私を見る目が苦手なのもあった。どこか必死というか、目が血走っているというか。そんなに慕われる上司ではないことは自覚しているので、彼らの変化がなんとなく不気味なのだ。
そもそも、この風邪は何かに悩んでいるときにひどくなる。悩みの種は、部下の失踪だ。ここ最近部隊の者が、数名姿をくらましている。一人や二人ではなく、二ヶ月で五人。私の監督不行届きなのだろうが、辞めたいのなら上司の私に一言残していってもらいたいものだ。
一つ溜息をつき、陛下との謁見の為心なしかふらつく足取りを叱咤して玉座の間へと向かった。

──────

───近いな。
つかつかと踵を鳴らして廊下を歩いているのは、リルトットの助言を受け意気揚々と部屋を出たバンビエッタだ。
廊下に出た瞬間、あの香りが漂っていることに気付いた彼女は、すぐさまその出処を追った。
純白で飾られた城内の曲がり角を歩行速度はそのままに急ピッチで曲がる。その時、一人の聖兵の背にぶつかった。刹那、先程までよりも少しだけ強く香る。
振り返って相手がバンビエッタだと気付いたらしい聖兵は慌てて謝罪を繰り返す。わたわたと身振り手振りで謝り倒すたびに香りが舞う彼に対し、バンビエッタはにこりと微笑んだ。
「ねぇ、少しお話しない?」
聖兵は一瞬バンビエッタの言葉が理解できなかったかのようにきょとんとした後、やっと意味が掴めたのか顔を真っ赤にしてぶんぶんと首を縦に振った。

「へぇ、入ってすぐ配属なんてすごいねっ」
バンビエッタが無邪気に褒めて見せれば、恐縮しきりだった聖兵も次第に気が大きくなっていく。やれ試験突破の鍵はこうだの、幼い頃からの夢は案外簡単に叶っただのと、訊いてもいない事柄をペラペラと喋ってくれた。
しかし、バンビエッタが欲しい情報は中々彼の口から出てこない。その上香りは時間の経過と共に弱まっていく一方で、痺れを切らした彼女はいつものように聖兵の太腿に手を添えて言った。
「……あなたってとってもいい香り。何かつけてる?」
突然の接触に聖兵は途端にどぎまぎしだす。だが硬直したのは数秒のことで、彼はバンビエッタをソファに勢いよく押し倒した。
調子に乗り過ぎだと斬り捨てることは造作ないが、まだもう少し泳がせる必要がある。
呼吸も荒く性急な動作で体をまさぐる手を掴んで、態と瞳を潤ませたバンビエッタは聖兵を見上げて訊ねた。
「、私と会う前、誰かと会ったりした?」
香水をつけた別の女とでも会っていたのか、と暗に問うていると勘違いしたらしく、聖兵はひどく可愛らしいものを見る目でバンビエッタを見つめながら答えた。
曰く、自分の所属する部隊──狩猟部隊の統括狩猟隊長に声をかけただけだ、と。
「そう。ありがと」
一閃。霊子兵装であるカトラスを一瞬で形作ったバンビエッタは、妖精のように幼気で愛らしい微笑みを浮かべ、目の前の男を縦に二つに分けた。断末魔を上げることも許されなかった聖兵は、水気をたっぷり含んだ音と共にバンビエッタの上に崩れ落ち、彼女の純白の制服を真っ赤に染め上げた。
くんくんとバンビエッタは鼻を鳴らして、先程までの香りが消えてしまったことを確認し、「あーあ」と残念そうな声を出す。ただ、リルトットが言っていた通り手がかりは得られた。しかし。
「狩猟部隊……隊長って誰だったっけ?」
騎士団に入ってまだ日が浅い彼女は、団内の人事に疎かった。

──────

「───総捕獲数七。内、アジューカス級二体。以上であります」
朗々とした声が、フロア全体に響く。謁見を許された狩猟部隊統括狩猟隊長─キルゲ・オピーは、任務の成果を彼の君主に申し伝えた。玉座に座する君主であるユーハバッハは、肘掛けに頬杖をつきどこか退屈そうに報告を聞いていた。
いつもならここでユーハバッハから軽い労いの言葉を賜り、場を辞する事が通例なのだが、この日は少し違った。ユーハバッハは手振りでキルゲ以外の兵を下がらせ、彼に近くに寄るように告げたのだ。
キルゲは眉一つ動かす事なくユーハバッハの言う通りに、堂々たる足取りで玉座の傍に歩み寄った。だが、内心では滝のような冷汗を流していた。
体調が優れない時に心酔する君主に近寄らねばならない事は、彼の心身に途方もない緊張を強いている。それでもキルゲはユーハバッハの目前に来ると落ち着き払った様子で傅いた。
ユーハバッハが立ち上がる。軍靴の踵を鳴らしてキルゲの傍まで寄りしゃがみ込むと、彼の耳元で囁いた。
「二日目、といったところか」
は……、とキルゲは色眼鏡の奥の目を見開いて、返事ともつかない曖昧な声を洩らす。
理解が追いつかないが取り敢えず発言は許されていないと判断した彼は、口を噤んで真白の床に視線を固定したまま、ユーハバッハの次の言葉を待った。
出来ることなら今すぐ逃げ出して、シャワーを浴びてからベッドにダイブして休みたい。しかし、こんなにも近くに主を感じることなどほぼ初めての為、この貴重な時間を永遠に過ごしていたい。
そんな思いがキルゲの頭の中に去来している。すべてを見透かしたような目で、ユーハバッハはキルゲの顎に指を添えて視線を合わせさせた。
「確か、βだったな」
質問された為恐る恐る口を開く。
「……はい」
ユーハバッハは含みのある笑い声を喉の奥で鳴らし、「限りあるその身でここまで登りつめた事、褒めてつかわそう」と告げた。
この時キルゲは、あ、私幸せで死ぬかも、と思った。

──────

「あー、狩猟部隊ってアレだろ?虚捕まえてお持ち帰りするっていう」
三時のおやつであるドーナツに思い切り齧り付いた後、リルトットは言った。口いっぱいに頬張っているためふがふがと不明瞭になった彼女の答えに、バンビエッタは大きな溜息をつきつつ訊ねる。
「何それ、意味あるの?」
「オレもよく知らねぇけど。天敵の研究はしとかなきゃって事で作られた部隊だったはずだ。将来的には虚圏にも手を出すとか破面を手駒にするとか何とか。……で?そこの隊長が気になってたりするわけか」
いきなり核心に迫られたバンビエッタは、あからさまに目を泳がせた。その頬はほんのり紅い。
「き、気になってるって言うか。えと、その隊長?ってどんなやつなのかなぁーって思って」
その動揺をジト目で眺めてからリルトットは次のドーナツに手を伸ばす。
「どんなだったかな。取り敢えず覚えてんのはデケえオッサンだって事くらいか。おまえも絶対見た事はあると思うぞ?任命式の時とかで」
リルトットの台詞にバンビエッタは「え゛ぇー?!」と心外そうな声を上げて、ソファに置かれたたくさんのクッションのうちの一つをぼふぼふっと叩いた。
「団内の男女比考えろ。むしろ当たり前だよ」
あと物に八つ当たりすんな、と窘めながらリルトットはドーナツの一つをバンビエッタの目の前に突きつけた。それを渋々受け取って、バンビエッタはちびりと齧った。
「ウソでしょ、あんなにいい香りなのに。あとあたしイケメン以外みんな同じ顔に見えるし」
「いい匂いのオッサンがいたっていいじゃねぇか」
「そういう問題じゃないぃ」
まだ言い募ろうとするバンビエッタに、リルトットはぼやく。
「相性を知るには案外体の匂いが重要らしいからなぁ。会ってみたら意外と……とかもあり得る」
「絶対無い」
言い切ったバンビエッタはドーナツの残りを一気に頬張る。リスみてぇだとリルトットは心の中で呟いた。バンビが見た目通りの性格なら、”あいつ”のこと任せられるかと思ったんだがこの調子じゃあ無理そうか。あいつの香りに気付くαは貴重なんだがなぁ。と、リルトットは腕組みをして考えながらバンビエッタをしげしげと眺める。
「……何よ」
「じゃあもうこの香りの事は諦めるんだな?」
「ん~。もうちょっとだけがんばる。どんな奴かだけは知っておきたいから」
バンビエッタの答えを聴いて、リルトットは元からくりくりしている目を更に丸くした。先程の考えからバンビエッタが件の人物に出会う事は回避したかったが、ここで無理に止めても逆効果だろうな、と小さく溜息をついてもぐもぐとおやつを咀嚼した。

──────

あれから三日経つ。
何故かあの後ユーハバッハからしばらくの外出禁止を言い渡されたキルゲは、自室のベッドに横たわりうつらうつらしていた。普段通りの体調だったならば、洗濯をしたり次回の任務の資料を隅々まで読み込んだりするところなのだが、あの日から本格的に体調を崩した彼は食事や睡眠すらまともに摂れないままベッドから降りずに過ごしている。自堕落な生活に深い溜息を溢しつつ、気怠げに寝返りを打ったその時、ノックの音が部屋に響いた。外出禁止と言われてはいるが、招き入れる事はアリなのかと一瞬応えが遅れる。
「よう、入るぜぇ?」
沈黙をOKと判断したらしい声の主が、ガチャリと扉を開いて顔をのぞかせた。
「アスキン……」
キルゲは吐息混じりに来訪者の名を呼んだ。その弱々しい声を聞いたアスキン・ナックルヴァールは、ムムっと眉間に皺を寄せ、飛廉脚を使ったのかと思える程の速さでベッドのすぐ横にやって来た。
「オイオイ、大分参っちまってるじゃねえの」
「いえ、楽になってきてはいるのですよ」
未だ倦怠感の残る体を起こす。そうすれば、すかさずアスキンはキルゲの背に手を添えて「無理すんなよぉ?」と声をかける。
「は、醜態をお見せして申し訳ない」
「そういうの言いっこなしだって言ったろぉ?」
別に醜態じゃねぇし、と言いながらアスキンは懐から何かを取り出した。そして、キルゲに向かってそれを差し出す。
「……風邪薬、いつもすみません」
「気にすんなって。医務室から拝借してきてるだけだしさ」
キルゲが薬の包みを開けている間に、アスキンは部屋に備え付けられている小さなキッチンに向かい、コップに水を汲んで戻ってくる。それを受け取ったキルゲが礼を言って口をつけると、水は見る間に空になった。気付かないうちに相当消耗していたらしい。二杯目の水を用意しながらアスキンはキルゲに言う。
「さ、薬飲んだなら水もう少し飲んであとは眠りな。起きたらあんたの好きなミルクプリン一緒に食べよう」
キルゲは不思議そうにアスキンを見つめた。そして少しの逡巡のあと、意を決したように口を開いた。
「……貴方はどうして、私などにこのような施しをして下さるのです」
アスキンはキルゲの発言に、彼の自己評価の低さをひしひしと感じつつ答える。
「施し、とは違うなぁ。助け合いの一環ってところかな。……ほら、せっかく同じ騎士団に所属してるんだし」
水の入ったコップをキルゲに手渡せば、何かを思いつめた様子だが小さな声で礼を言う。そういう律儀さ、あんたの美点だよ、と言ってやりたくなったが、それを伝えればキルゲはあわあわと必死に否定するだろうという事は経験から知っている為、徒に体力を削る事もあるまいと敢えて黙っておく。
「ここまで長引くって事は、よっぽど悩んでると見た」
「……貴方に隠し事はできませんねぇ」
「後で聴くから、今は寝ような。そろそろ薬も効いてくる頃だ。ちっとは楽になれば眠れるだろう」
ここ数日熱に苛まれろくに睡眠もとれていない事まで見抜いているらしい。この人には敵わない。と痛感しながら、当たり前か相手はαだ、と気持ちを切り替え、ベッドに身を沈める。
ベッド横に椅子を持ってきたアスキンが文庫本を懐から取り出して読み始める姿を確認した後、キルゲはゆったりとその意識を手放した。

──────

「おう。意外と早かったな」
リルトットは積み上げられたパンケーキにナイフを差し込みながら来客を出迎えた。彼女の向かいの席には同じく積まれたパンケーキがほこほこと湯気をたてている。部屋いっぱいに漂う幸せな匂いに、来客であるアスキンは嬉しそうにヒュウッと口笛を軽く鳴らした。
リルトットは手の平で席を示し、言外に座るように促す。まぁ、俺の部屋なんだけどなぁと機嫌よく考えながら椅子を引いて腰掛けると、アスキンはわくわくとしながらナイフとフォークを握った。
「……で?何だって?」
いざ実食、とナイフを突き立てようとしたところで問われ、アスキンは少し固まったあと、切り分けながら答えることにした。
「んー。どっから話そうかな。」
道中整理した話す内容をもう一度頭の中で並べながら、アスキンは言葉を選んだ。
「率直に言っちまえば、今回の”ヒート”が長引いてるのはお宅の新入りちゃんが原因だろうなぁ」
彼の台詞に、リルトットは深く頷いた。そして一口大にしては大き過ぎる切り分けられた一片を口に放り込む。頬をハムスターのようにふくらませる様は非常に可愛らしい。アスキンは微笑ましくリルトットを見てから、自らも一口含んだ。
「あいつは気づいてたか?」
「いや。それが部下が勝手に辞めたと思ってるらしくてよ、自分の上司としての不甲斐なさを嘆いてたよ」
「どうしてそう自責にいくかな」
もごもごとパンケーキを咀嚼しながらリルトットは疑問を口にした。
アスキンは皿の上を転がるベリーに苦戦しつつ答える。
「仕方ねぇよ。長くそういう環境に置かれてたんだから」
「そりゃあいつが子供の頃はあの一族は有名だったらしいぜ?だけど今はあいつくらいだろ、騎士団に所属できてるのはよ」
それに、両親はどうしてたんだよ?というリルトットの問いに、アスキンはしばし黙した。
「……俺だって詳しくは知らねぇよ?ただ、過去を多くは語らないあの人が、珍しく饒舌になるのはそのご両親との思い出話だな」
リルトットはその説明に違和感を覚えた。
「ん?それだとまるで愛されてたみてぇじゃねえか」
想像と違うぞと言葉にはせず視線だけで疑問を顕にする。
「愛されてたんだよ……恐らくは、物凄く深くな」
「どういう……ことだ?」
リルトットはナイフとフォークを置いた。まだ食べかけにもかかわらず、だ。こりゃあ相当真剣だな、と判断したアスキンは、自分も追いかけていたベリーを一旦諦める。
「知っての通りあの人、キルゲは……Ωだ。だが本人は自分をβだと思い込んじまってる」
リルトットは頷き、続きを待った。
「思い込みっていうのは恐ろしいもんで、あの人の心身に多大な影響を及ぼしている」
「アレだろ?ヒートのはずなのにフェロモンが殆ど出ないとか、あと風邪みたいな症状な上短期間で治まっちまうとかっていう」
アスキンはビシィッとリルトットを指さした。とある破面ならば「エサクタ!」と叫ぶところだ。
「本人の話では、ご両親には『βにだって無限の可能性がある』って育てられたらしい。多分だが、すべては……あの人を、我が子を、周囲の心無い奴らから護りたいというその一心で。あの人のご両親は任務中に殉職してる。その日から体調を崩しやすくなったって本人は言ってたな」
「何だそりゃ……呪いじゃねぇか」
「ん?」
「結局は自分らの理想を押し付けただけだろ?本来ならどうやってΩである自分の身を守るか、ヒートにどう対処すべきか教えてやるのが親の責務のはずだ。それをせずに、勝手な教えで拘束して、そのまま死ぬなんて身勝手が過ぎるぜ……!」
クールなリルトットが珍しく静かな怒りを顕にしている様子に、アスキンはふるりと身震いをした。
「ま、まあ確かに、俺んとこもヒートに関してはしっかり教え込まれたしなぁ。抑制剤の事も。でも教えようと思っていた矢先に亡くなっちまったっていう可能性も……」
「それも含めて無責任なんだよ。ココに居たんならいつ死んでもおかしくねえってのに」
リルトットはふんっと軽く鼻を鳴らして、再びフォークを握りしめた。勢いよくパンケーキの残りを突き刺すと、ぐにゃりと口を広げてかぶりつく。
「話を現在に戻そう。取り敢えず、新入りのバンビエッタだったか?彼女には諦めてもらう方向で……」
アスキンがそう言い掛けると、リルトットは首を横に振った。
「悪い。止められなかった」
「は?」
「なんかやる気満々だった」
リルトットは飄々と告げた。そんな彼女に対してアスキンは、「アンタも大概無責任な人だな……」とこぼす。
「オレはおまえに頼まれたから協力してるだけだからな。大丈夫、バンビは若い男にしか興味ねぇし」
「でもよぉ」
未だ不安げなアスキンに、リルトットは別方向から質問を投げかける。
「キルゲのやつ、ミルクプリン喜んでたか?」
その問いにアスキンは食いついた。
「そりゃもう!嬉しそうに食べてくれたよ。やっぱりアンタの見立てに狂いはねぇな」
結局バンビエッタを止めるか否か、という議題については未解決のまま夜は更けていった。

──────

「ねぇ聞いてっ」
ドアを蹴破らん勢いで入室したのはバンビエッタだ。
息を弾ませ頬は上気し、その声は喜びに上擦っている。そんな彼女をきょろりと見たジゼル・ジュエルは、感情の読めない一見無邪気な表情で「おかえり、バンビちゃん」と出迎える。
「あれ、リルは?」
目当ての人物ではなかったためか途端にムスッと表情を変えたバンビエッタに、ジゼルは内心で彼女の息の根を止めながら答えた。
「居るけどみんな奥のお部屋でお昼寝中だよぉ?」
「はぁ?ったく、だらしない」
ソファにどっかりと座り込んだバンビエッタは、脚を組んでジゼルに視線を放る。
「アンタは何してたの?」
「ボクはねぇ、バンビちゃんを待ってたんだぁ」
どこから入手したのか分からない現世の雑誌を放り投げて懐いてくるジジを、バンビエッタは片手であしらう。
「ふぅん」
明らかに興味がない返事にもめげず、ジゼルはバンビエッタが今一番食いつくであろう話題を振った。
「それで、逢えたの?」
「はぁっ!?」
どうしてアンタがそれを……!と警戒と怒りを顕にする彼女は、今にも能力を暴発させそうな雰囲気だ。それをまぁまぁと宥めて、ジゼルは悪びれもせず形だけの弁明をする。
「ボクなぁんにも知らないよ?ただね、バンビちゃんが誰かをずっと探してたのは知ってるから」
「カマかけたってわけ?悪趣味ね」
「その感想、今更だよぉ」
暖簾に腕押しな問答にうんざりした様子でバンビエッタは額に手をやった。
「で?で?何をあんなに喜んでたの?」
「べ、別に喜んでなんかないわよ」
そうなんだぁ~と態とらしい相槌を打ち、ジゼルは続きを待った。暫くだんまりを決め込むバンビエッタだったが、ジゼルから送られる視線に耐え切れなくなったのか軽い癇癪を起こしたように声を荒げた。
「あぁ、もう!分かったわよ」
「わぁ~い」
「どうせ言ったって分からないだろうから言うわ。再来週、狩猟部隊と合同任務!」
「ほぅ、良かったじゃねぇか」
「っ!?」
突然背後から聞こえた幼いが荒っぽい口調の声に、バンビエッタはギョッとした表情で振り返った。声の主がリルトットである事を視認し、ようやくバンビエッタは緊張を解く。
「起きてたんならさっさと来てよねっ」
「いや、おまえの大声で起こされたこっちの身にもなれってんだ」
ぼやくリルトットにジゼルが言う。
「昨夜はお楽しみだったもんねぇ」
「まぁな」
その答えを聞いたバンビエッタは目を丸くして問う。
「男でも連れ込んでたの?」
「逆だ逆。通い婚だ。それにおまえと違ってオレは一途だからな」
へぇ~と信じられないものを見るような目でジロジロと見てくるバンビエッタの不躾な視線をものともせず、リルトットは平然と訊ねる。
「再来週って言うと月末だな」
「そうだけど、何よ」
「別に。ま、期待し過ぎずに冷静に任務遂行を目指してこいよ」
「さ、最初からそのつもりっ」
「バンビちゃんお顔真っ赤ぁ」
ひっくり返った声音で返事をするバンビエッタを冷めた様子で見、リルトットは件の部隊の隊長であるキルゲに念の為抑制剤を持たせるべきか否か、思索を深めていた。

──────

あたしの本当の親がどんな人達で、どうなったかは知らない。
覚えていないやつらのことなんて心底どうでもいい。
ただ、親と名乗る存在が、私を損なう事だけは知ってる。
養父はあたしの体にべたべた触り痛い事もする。
養母はそれを見てあたしを殴り踏みつける。
βのくせに。幼いα相手に好き勝手していい気になって。
何が「お前が誘うからだぞ」だ。
何が「アンタさえいなければ」だ。
日に日に感覚が薄れていく。痛みも悲しみも、次第に分からなくなっていった。これは本当にあたしに起こっていることなの?
現実と妄想の境目が曖昧になって、自分が自分じゃなくなる感覚が強まっていく。
それも、どうでもよかった。

家が燃えている。
記憶を辿っても、いつも通り気持ち悪くて痛いことをされて、意識が遠のいていったところまでしか思い出せない。
轟々と音を立てて燃え盛る炎を、きれいだなって眺めてたら、真っ白な服を着た人に抱き上げられた。
その人は、白い手袋をした手で私の頭を優しく撫でると、「もう大丈夫ですよ」と、仮面の下から告げた。
穏やかな声は未だ見たことはない想像上の凪いだ海を思い起こさせた。聴いていると心のざわつきが治まる気がする。
何がどう大丈夫なのか分からなかったけど、なぜだかこの人が言うならきっとそうなんだろうと思えた。
けれど、同時に違和感を覚えずにはいられなかった。この人が見ているのは私であって私じゃない。そんな感じがして心がささくれだつ。
他の白い人たちが、家の火を消そうと躍起になっている中、その人はゆったりと彼らを眺めているだけだ。
彼は私を真っ白いお馬さんに乗せると、その後ろに跨った。
お馬さんに乗せられてお城に行く。養父母の目を盗んで読んだ古い古い絵本に出てくるお姫様が暮らすような場所。
お髭のおじさんから難しいお話をされて、住むところと温かい食事をもらった。
柔らかいパンにかぶりつきながら、あたしを助け出してくれたあの人はどこに行ってしまったんだろうとばかり考えていた。

なまじ才能はあったから、それはそれは虐められたけど、返り討ちにしてやるたびに敵は減っていった。
その代わり、誰も私に近づいてこなくなった。
馬鹿馬鹿しい。
αばかりを集めて創られたという陛下お抱えの騎士団候補が聞いて呆れる。
こんな弱っちい奴らばっかり集めて何になるの。
私が騎士になったあかつきには、脆弱で猥雑な、そのくせ女だからとこちらを侮る輩を片っ端からやっつけてやる。
そして、あの人にもう一度会うんだ。

懐かしい夢を、見ていた気がする。
覚醒の瞬間にほとんど忘れてしまったけれど、未だ朧気に頭の中で響くは海。
海なんか行ったことないし、写真や絵でしか見たことがない筈なのに、どうして。
目覚めたばかりのぼんやりした頭を疑問とさざなみがざわりと巡る。
身を起こし軽くかぶりを振れば、それらは霧消とまではいかずとも多少は静まった。
今日はココに来て初めての遠征だ。それも、現世ではなく、虚圏への。
なんでも、破面を狩って実験を行う手筈らしい。奴らを手駒にできるか否か、水面下で議論されていた机上の空論が、にわかに現実味を帯びてきたとのことだ。そのため狩猟部隊を斥候として数名派遣することになった訳だが、場所が場所だけに転ばぬ先の杖ということで広範囲での殲滅が可能なあたしが護衛に選ばれたそうだ。まあ、天敵の本拠地で爆発なんて起こせるわけがないから、あくまでもあたしの存在はいざというときの保険といったところだろう。それにしても。

「護衛、ねぇ……」

陛下の深遠なお考えはあたしなんかじゃ理解できないのだろうけど、今回の任務の説明を団長らしいハッシュ……なんとかという金髪の美形くんから受けたとき、護衛という言葉に少し不思議な感じがした。違和感といってもいいかもしれない。陛下は冷徹残虐な”平和主義者”だという評判をよく耳にする。実際あたし自身も陛下によって処刑された兵をこの短期間で幾度か見てきた。そんな方が、一兵卒とまでは言わなくとも、いち聖文字持ちでしかないやつに護衛なんかつけるだろうか。あたし達の替えはいくらでもいるはずなのに。
悶々と考えながら支度を整えていく。

「ま、どうでもいっか!」

悩むのは好きじゃない。行動に移してしまった方が楽に決まっている。
マントを羽織って気持ちも新たに扉を開いた。

──────

四名の兵たちが連携して一匹の破面を死なない程度に、かつ速やかに痛めつけていくのを少し離れた位置からぼーっと眺める。
もともと派手に暴れるやり方を好むバンビエッタにとって、今回の任務ははっきり言ってかなり退屈だった。
何よりリルトットが言っていた通り、この部隊の隊長がバンビエッタの望むような人物ではなかったことに、ひどく落胆していた。

「……だって、ふつーにオジサンなんだもん」

しかもクソ真面目、つまんないの。
ぼそりと呟いて砂の上に転がっていた小石を蹴り飛ばす。
こつり、という軽い音を耳聡く聴きつけたらしい件の人物(確かキルゲとかいった)は、バンビエッタの方を振り向いた。
常夜の虚圏にいてさえも深紅の色眼鏡をはずそうとしない彼が、「退屈ですか」と口角を軽く持ち上げて言う。ゆったりとしたその声に胸の内が何故かさざめくのを感じつつも、キルゲの様子が実に厭味っぽく見えて、バンビエッタは舌打ちした。

「ご自慢の部下に戦闘は丸投げして、隊長サンもさぞ手持ち無沙汰でしょうね」

暗に役立たずの置物めと言ってやったつもりだったのだが、キルゲはふっと笑うと人差し指を自らの唇に軽くあて、

「あくまでも私の役割は”封じ込めること”、ですからねぇ」

とのんびりともとれる口調で述べただけだった。
口撃が不発に終わったバンビエッタは、ふんっと鼻を鳴らしてそっぽを向く。その時だった。

「がぁっ!?」
「ぐっ!!」

鈍く湿った音と短い悲鳴を上げて、聖兵たちがただの肉塊と化した。つい数秒前まで無力化されていっていると思われた破面が、最期の反撃に出たらしい。

「何しくじってんのよ……!!」

「いいえ。彼らはよくやってくれました」

霊子兵装であるカトラスを構えたバンビエッタの言葉に、キルゲは同じくサーベルを破面に向けつつ答えた。
直後、彼のサーベルから弓状の射出台が形成され、そこから神聖滅矢が放たれる。
破面は躱すほどの余力は無かったらしく、自分に向かってきたキルゲの矢を打ち払おうとした。しかし破面に触れた瞬間、神聖滅矢は形を変え球状の力場を作り出した。

「何あれ……檻……?」

煌々と輝くそれを見て、バンビエッタは言葉を洩らす。

「彼らの役割は、獲物を追い詰めて全力の向こう側を曝け出させること。そしてあの破面は、”合格”です」

まあ、殺されてしまうとは、我が部下といえどなんとも嘆かわしい惰弱さですが。
そう冷たく言い放って、キルゲは肩に羽織ったケープを翻した。
あっけにとられていたバンビエッタは、スタスタと先を行くキルゲを慌てて追った。

──────

陛下に任務完了と戦果である破面の活きの良さを報告をするキルゲは、声音も高らかに、威風堂々たる態度だった。
だが陛下に呼ばれ、耳元で何ごとかを囁かれた瞬間、彼の状態は一変した。
否、他の者達からはそれなりに距離があったため、彼の変化に気付いたのはあたしと陛下だけだったとは思う。
玉座を離れてあたしの隣に戻ってきた時、その頬は薄っすらと紅く染まり、また、彼は上がった呼吸を整えるように震える吐息をついた。その上、色眼鏡に隠されていた目元をちらりと横目に覗けば、今にも溢れてしまいそうに濡れていて。
それだけではない。あたしの側にキルゲが立った瞬間、確かに香ったのだ。こちらの本能に柔く爪をたてるような、あの香りが。だけど、すぐ隣にいるにもかかわらず、それはひどく弱々しいものに感じられた。

謁見の間を辞した途端、ふらつくキルゲの手をとって、あたしは自室へと走った。幸いというべきか人気は無く、あたし達を奇異の目で見る者は居なかった。
閉じた扉に背をあずけ、ずり落ちるように座り込んだキルゲに向かい踵を鳴らして歩み寄り、くん、と鼻を鳴らす。リルはあり得ないって言ってたけど、やっぱりこいつ、Ωだ。

「ねぇ」

声をかけるとびくりと体を震えさせる様が、先程までの自信に溢れた態度と打って変わって弱気に見えなんだかゾクゾクする。
ゆっくりとこちらを見上げる顔はぎこちなく笑みをつくっていた。

「申し訳ない。じきに治まりますので……ッ?」

ぐだぐだ言い訳してるっぽいのでとりあえず腕を引いて立ち上がらせると、色眼鏡の奥の目を丸く見開いてこちらを見つめたのが判った。この距離なら色濃い眼鏡の下も見えるのね。
ふらりと傾く体を支える。思っていたよりは軽くて少し拍子抜けだ。

「そのままじゃつらいでしょ、隊長さん?らくにしてあげる」

声音にとびきり甘い毒を含ませたつもりだったけど、キルゲはきょとんとあたしを見た後、難しい顔をして視線を落としただけだった。

「? 医務室に行って風邪薬を飲めば楽になると思いますので……」

はぁ?と声にも顔にも出さなかった自分を褒めてあげたい。

「お気遣いありがとうございます」

なんて、暢気にお礼言ってるけど、本気なのか襲われない為の下手過ぎるウソなのかイマイチ掴めない。

「風邪薬……って何の冗談?」

半笑いで一応訊ねれば、小首を傾げたキルゲが説明をしてくる。
曰く、偶に発作のように起こるこの”風邪”を抑えるクスリがあるのだそうだ。それを飲まずとも時間が経てば治まるそうだが、今日はあたしに迷惑を掛けてしまった為に早く症状を抑えたいのだ、とも。
明らかに抑制剤のことだろうと想像はできたが、キルゲの神妙な表情を見るに嘘を言っているつもりでもなさそうで、あたしはあきれて頬をかいた。

「……ほんっとに自覚が無いわけ。どんな育てられ方してきたのよ」

「飴四割の、鞭六割くらいですかね」

「そういう事訊いてるんじゃないのっ。Ωなら、普通はそれ相応の”教育”を受けてる筈って事」

あたしのこの言葉に、キルゲは色眼鏡の奥の目を丸く見開いた。そして言う。

「……もしや、貴女Ωなのですか」

「ナメないで。れっきとしたα!」

焦れったくなったあたしは、キルゲの手を引いてベッド横まで行くと、容赦なく彼を押し倒した。深紅の色眼鏡が半分くらいずり落ちて、キルゲが目を瞬かせてこちらを見上げているのが見て取れる。へぇ、碧い目なんだ。意外。
脚の間に身を滑り込ませ、肩を押せば、キルゲはいとも簡単にぼふっとベッドに沈んだ。ここに至ってようやく身の危険を感じ取ったのか、慌てて起き上がろうとしてくるのを軽くいなす。

「い、いけません……!いくらαと言えど、貴女は女性なのですから、このような無防備な行いは過ちを生んでしまいます」

「あのさ、無防備なのはこの場合アナタでしょ」

制服のスカートがテントを作っているのを見せつけるようにすれば、キルゲはぴたりと動きを止めた。
混乱を極めていそうなキルゲに、これ幸いと彼の制服を脱がす作業に取り掛かる。ケープやジャケットの前を開き、ベルトをカチャリと外す。この音で我に返ったらしいキルゲがあたしを押し戻そうとしてくるが、無視して詰襟のインナーのジッパーを一気に引き下ろした。
素肌が晒されると同時に先程までよりも強く香り、あたしはそれにあてられたように息を荒くする。本能を刺激された事による獣じみたあたしの変化に、キルゲは「ひっ」と息を呑んだ。

「気付いてないみたいだけど、さっきからフェロモン溢れちゃってる。αに、あたしに犯して欲しいって」

「そんな筈はっ……わ、私、βなんですよ……?」

「はぁ?」

わたわたと脱ぎかけの制服をかき集めているキルゲは、あたしの呆れと苛立ちとを合わせた視線に気付かないようだ。ベッドの上をずりっと移動しようとする彼の腰を抱き寄せ、下着ごと制服の下を引き摺りおろした。
慌てたような声を上げるキルゲを放っておいて、彼のお尻の窄まりに指を滑らせる。普通この調子なら蜜でびしょびしょに濡れているはずのソコは、乾いていた。

「あれっ?」

素っ頓狂な声を出したあたしを見上げて、「ほらね?」とでも言いたげな顔をした、あからさまに安堵している彼の態度に腹が立ったあたしは、人差し指を無理矢理ソコにねじ込んだ。

「ぐ、ぅあ……!? え、バンビエッタ……?」

濡れてもいないしローションとかでならした訳でもない、当たり前のように指の侵入を拒んでいるソコにあたしは舌打ちしながら、それでもぐいぐいと押し進めていく。
突然の痛みと異物感に眉根を寄せ、キルゲがあたしの名を呼ぶ。
彼の声は同僚に犯される恐怖と戸惑いに染まっていた。
その事実が、またあたしを煽る。それに気付く気配のないキルゲは、なんとか正気に戻って欲しいのか、何度も震える声であたしの名を呼び続けた。
でも、無理な話だ。
だって、キルゲの纏う甘い甘いフェロモンは、強まるばかりだから。
本人に自覚が無かろうと、後ろが濡れてなかろうと、あたしは彼の蜜に惹き寄せられた蝶のように貪る事しかできなかった。

──────

キルゲの甘い香りとあたしが放った精のニオイが混ざって、部屋の中を満たしている。
乱れたベッドの上で短く浅い呼吸を繰り返すキルゲは茫然自失といった様子で、寝物語なんかしている余裕なんて無さそうだ。
それもそうか。彼は今レイプされたんだから。このあたしに。
一向に濡れる気配のないソコに苛立って、捩じ込んで、蹂躙して。
流石に”つがい”にはなるつもりは無いから噛みはしなかったけど、うなじの辺りを舐めあげてやれば怯えたように身を震わせていた。
その姿は滑稽そのものだった。だって、つい先程まで自分をβだと言って譲らなかったのに、無理やりつがいにされる事を恐れるなんて、矛盾してる。
指で拡げている時に確かめたけど、図体に似合わない小さな分岐点を胎内に認めた。それは香りと同じ、いや、それ以上にキルゲがΩだと決定づける証拠だった。
どうしてこの騎士団にΩが居るのか、それはよく分からない。もしかしたら陛下がキルゲに何事かを告げた謁見の間での出来事がヒントなのかもとも思う。
隣で虚空を見上げているキルゲに視線を遣り、気だるい中口を開いた。

「あんたってさ、陛下のコレ、だったりするの?」

そう言いつつ小指を立てて見せる。
その刹那、色を失くしていたキルゲの顔に、明らかな”怒り”という色が滲んだ。

「……私をどうしようとこの際何も言いません。私にも落ち度がありました。ですが、陛下を貶める様な発言は、決して赦されるものではありません。今回の件は、私の胸に納めておきますが、次は有りませんよ」

先程までとは打って変わってきっぱりと言い切るキルゲを見て、きょとんとしてしまった。
なんだろう、この感じ。いらつくっていうのもあるけど、何かズレているような、噛み合っていないような、もどかしいこの感覚。なんだか今からでもこいつの首筋を噛んでやろうか、という思いに駆られる。でも、時既に遅しだった。
あたしが腕組みをして考え込んでいる間に、キルゲは床に放り出されていた制服をきっちりと身に着け、無理やり犯されたことなど夢だったかのように、”いつもどおり”に戻っていた。
部屋のドア前までゆったりと歩いていき、こちらを肩越しに振り返ると、キルゲは宣誓のように高らかに言い放った。

「βだからといって、見縊らないでいただきたい」

──────

「は?」

俺の素っ頓狂な返事にもなっていない声に、リルトットは眉間の皺を更に深くした。

「だから、アイツ犯しやがったんだよ。多分、いや十中八九、無理やり」

「だ、だって、そりゃおかしいぜ。諦めかけてたんじゃなかったのかよ」

食って掛かってしまうが、リルトットには何の非も無い事は分かってはいる。それでも、狼狽える俺は自分を抑えられない。だって、あんまりだ。

「止めきれなかった。まさかあんなに手が早いとは……」

「……咬んだのか」

首を横に振るリルトット。それを見て少しだけ安堵する。が、放っておけるわけがない。
俺はリルトットの制止の声も聞かず駆け出した。

──────

からだが熱い。
いつもの風邪かと思っていたが、どうやらそうではないらしい。だるさやふらつきはいつも通りだが、何と言うか、熱源が違うような気がする。からだの奥底から来ているような、具体的に言うと腹の中で何かが燻り続けているような、今までに体験したことの無い感覚だ。
ベッドの上で身を捩る。
無理に這入りこまれた”後ろ”はまだ痛んで、違和感と共に、何より精神を苛んだ。
否応なしに昨日の蹂躙を思い起こさせる。
無遠慮に私の表面を這い回る手の感覚。愛撫だなんて呼べない八つ当たりのようなそれは、痛みしか齎さない。しかし、何よりも私の心を苦しめるのは、彼女の、バンビエッタの言葉だった。

『あは、隊長さんの弱いとこ、見っけ。分かる?ここ。』

『アナタが”Ω”である証拠だよ?』

そんな訳があるか。私は自他ともに認めるβだ。
自分でも触れたことのない場所を無理やり嬲り、その挙げ句にΩなどと。
必死に否定しても、バンビエッタの声が頭の中に何度も何度も響き渡る。まるでここにバンビエッタ本人がいて、耳元で囁やかれているような気さえして身震いした。
ゾクっと背筋を走るそれはしかし、悪寒とは別物で。むしろ、腹の底の熱源から放たれ、しびれるような余韻を残していく。臍の下辺りを撫でてみるが、殆ど意味をなさない。意識しだせばとめどなく溢れるその感覚に、無意識に手が”後ろ”へと向かう。
割れ目に沿って指をすべらせ、ソコに届こうかというその瞬間。
ぬるり、と。

「ひィっ?!」

ぬめり湿った感触に今度こそ戦慄する。
何だこれは。これでは、これではまるで……。
パニックに陥っていると、部屋の扉が勢いよく開かれた。そこに立っていたのは。

「バンビ、エッタ……!」

彼女はつかつかと歩いてくると、ベッドに乗り上げ、横たわる私の上に跨った。
無造作な黒髪が顔に影を落とし、その表情は読み難い。

「アナタねぇ、だだ漏れなの……自覚無いわけ?」

どうやらひどく怒っているらしいバンビエッタは、手を私の顔の横についてこちらを覗き込んできた。
端正な眉を吊り上げ目元を厳しく眇めるその表情はそれでも幼さすら残しているのに、私の腹の辺りにくる彼女の膨らみは既に兆し始めており絶望感が押し寄せてくる。
だが、その絶望と共に、明らかな”悦び”が私の意識を上書きしていく。
──目の前のこのひとならば、私をこの熱から開放してくれる。
いや、このような思考は決して私のものではない。
──触れてほしい。
止めろ。違うんだ。
──……犯してほしい。手酷く私を犯して。
いつの間にかそう切望している私の口は、私自身のなけなしの理性がはたらく間も無く、はしたない言葉を発していた。

「バンビエッタの……くださいッ。わたしの、ココに」

言って、自ら脚を開くと、バンビエッタの中心を撫でる。
そうすれば、バンビエッタがごくりと喉を鳴らすのが聴こえてきて、私は愉悦した。
しかし、彼女は下唇を噛み締め何かに耐えるように表情を歪める。
堪えきれずに私は自分の指を後ろの窄まりに挿入する。くちゅりと濡れた音をたてるソコは、昨日バンビエッタに揶揄された時のように乾いてはおらず、すんなりと私自身の指を受け入れる。
指だけで軽く絶頂してしまう私を見、彼女は舌打ちをした。

「……アナタが悪いんだからねッ!ひとがせっかく我慢してあげようって思ってるのに!」

そう叫ぶように言うと、バンビエッタは自らの中心を私の後孔に充てがい、ひと息に押し込んだ。根元まで埋め込む拍子にばちゅんと肌と肌がぶつかる音が部屋に響き、私は身も心も歓喜に打ち震えた。
熱いモノに胎内が満たされる感触にどうしようもない快感と多幸感が溢れ、それらは私の口から甲高い嬌声となって零れ出る。

「ぁ、は……ッ!あぁ、ああ゛あ゛!」

「アナタが、次はないって、言ったんでしょ!?」

──彼女は今何を言っている?
そうだ、私が言ったのだ。陛下を貶めるのは赦されない。そして、βを見縊るな、と。
──わからない。ただ、きもちがいい。
違う!気持ちよくなど、なるものか。
──このまま熱に溶かされて、彼女とひとつになってしまいたい。
止めろ。もう何も思考するな。

「ばんびぃッ、もっと、もっとください……ばんびのぉ!」

「昨日の今日で、急に手のひら返してんじゃないわよ!」

激しさを増す動きに言葉を紡ぐのも難しくなってくるが、それでも私の口からは浅ましい懇願が次々に溢れて止まらない。
バンビエッタは初めこそ多少面食らった顔をしていたが、すぐに獣のような唸りを響かせて抽挿を続行した。
──咬んでほしい。
それだけは、駄目だ。私はβだ!
──彼女の、バンビエッタのものになりたい!
身を捩ってバンビエッタに強請る。

「咬んで、下さい」

「ッ!?な、何言ってるの」

「咬んでぇ……ッ!」

グルル……、と私を犯す獣が喉を鳴らす。
その犬歯を剥き出しにして。
すべてをバンビエッタに委ね、私は恍惚と目を閉じる。
その時だった。

「止めろッ!!」

この声は、アスキン……?
確かめようにも瞼を持ち上げるのも何だか億劫で、私はそのまま意識をトばした。

──────

「だって、あのヒトが咬んでって強請るから」

むすっと拗ねた表情を隠そうともせず、バンビエッタは答えた。
先程までのα特有の獣性はすっかり鳴りを潜めており、テーブルに頬杖をつきながら、自分を咎めようとするふたりを静かに睨めつける。
そして視線を奥の部屋、寝室に続く扉に流した。あの扉の向こうでは、キルゲが穏やかな眠りに就いている。
その視線を遮るように席を移動したアスキンは、コホン、と一つ咳払いをし、言葉を選んだ。

「あのひとはなぁ、何ていうか、まっさらなんだよ。分かるか、お嬢さん」

「……バンビエッタ」

「ん、バンビエッタよぉ。ヒートになりたてのガキに手ぇ出すか?常識的に考えて」

そう問われたバンビエッタは、「何言ってんの?」とその端正な顔にでかでかと書いてアスキンを見る。彼の台詞を鼻で笑った。

「ガキって。ふつーにオジサンじゃない。自己責任でしょ」

「だからよぉ「つーか、あいつと番っても良いのかよおまえは」

頭をがしがしと掻きむしって言い募ろうとするアスキンを手で制し、リルトットが口を開く。
その言葉にバンビエッタは曖昧に首を傾げ、腕を組んだ。
目を閉じて、考え込むような仕草を見せる。

「そう言えば、イヤかも」

これを聞いたアスキンが目を見開く。リルトットは身を乗り出そうとする彼を抑えつつ、続ける。

「な?一生をあのおカタイおっさんと過ごせるかと言われたら、答えはNein.だろうが」

リルトットの言葉は、バンビエッタを説得するのに十分であるかのように思われた。
しかし、バンビエッタは納得していない様子で傾げていた首を逆に傾けた。ふさりと無造作に流した黒髪が揺れる。「んー」と声を発し、彼女は異を唱えた。

「一生はイヤかもだけど、ちょっと気になる事があるから他の人に盗られるのは、困るんだよねぇ」

たとえば、アナタみたいな人とかに、ね。
そう言ってバンビエッタはアスキンを流し目でついっと眺めた。身に覚えが無いと言わんばかりに、アスキンはきょとりと目を丸くする。その態度が気に障ったらしく、バンビエッタはまた頬杖をつくと、指でテーブルをトントンと打った。
リルトットはバンビエッタの指先に目を遣りながら訊ねる。

「気になる事?」

「あたしもよく分かんない。けど、なんかイラつくっていうか引っかかるっていうか……?」

「そんな理由で番になって良いと思ってんのか」

「だって色々だだ漏れなんだもん!この引っ掛かりを何とかするまで気が気じゃないの、こっちとしては」

バンビエッタのこの台詞にアスキンは深く深く頷いた。
リルトットは半笑いでそんなアスキンを眺め彼の肩を軽く叩き、言葉をバンビエッタに放る。

「あいつのフェロモンに勘付いたのはおまえとオレ、あとはたぶん陛下くらいだろうよ。鼻が利く聖兵たちもちらほらいるようだが、そいつらからはキルゲは自衛できていたし、これからはおまえが責任持って守ってやれ」

ほらよ、と放り投げられた紙袋を受け止め、バンビエッタはその中身をまじまじと覗き込んだ。

「これって、抑制剤?」

「『風邪薬』だよ、あいつにはそう伝えておけ」

「何で?あのヒトΩじゃんふつうに」

至極不思議そうに訊ねてくるバンビエッタに、アスキンが答える。

「そういう、”約束”なんだよ」

誰との?というバンビエッタの問いには、アスキンもリルトットも答えなかった。
そこに凛とした声が響く。

「約束、ですか」

「キルゲ……!起きて大丈夫なのか」

扉に寄りかかる状態でやっと立っていられる様子のキルゲに、アスキンが駆け寄って肩を貸した。
キルゲはふらつきながら椅子に腰掛け、アスキンに丁寧に礼を述べた。

「気になりはしますが、訊かない方が良いのでしょうか」

改まったキルゲの無垢な質問にリルトットとアスキンは顔を見合わせた。バンビエッタはぶすくれている。

「まぁ、また今度、な」

「そう……ですよね」

明らかにしょぼんとしょげてしまったキルゲを元気づけようとしたのか、アスキンはリルトットの目の前にあった白い紙袋をキルゲの前に移動させた。

「あんたの好きな店のケーゼクーヘンだぜ。一緒に食べないか?」

その誘いに、つい先程までのしょんぼり具合は何処へやら、キルゲは珍しく色眼鏡に隠されていない目を輝かせた。
その無邪気とも言えそうな素振りにバンビエッタは少し瞠目し、早速クーヘンを頬張るキルゲのほっぺたをつつきたい衝動に駆られるのだった。

──────

つづくはずです……。

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