Der Wächter von Der Schlaf

キルゲは眠らない。
いや、これだと語弊がある。確かにそういう日もあるようだが、普段は眠らないというか、極端に睡眠時間が短い。
元々眠る姿が想像できなかったのだが、実際野営していても休むところを見たことが無いような気がしていた。その考えが事実だと知ったのは、彼とこの関係になってからも一年ほどじっくり時間をかけ、ようやく情を交わせるようになった夜だった。

キルゲ本人の許しは得たものの彼の身体にかなりの無理を強いてすべてを全うし、多幸感と申し訳なさに包まれてベッドに横たわると、すぐとなりではふはふと呼吸を整えているキルゲと視線が絡んだ。と思いきや、彼は赤らんだ頬を更に染めて目を逸してしまう。そんな微かな仕草でさえ可愛くて仕方がないオレは、そんな彼のために甘い甘い寝物語でも、と口を開きかけた。だが、彼は徐ろにベッドから下り、やや覚束ない足取りでシャワールームへと向かってしまった。
さらさらと水の流れる音をどこか遠くに聴きながら、オレは睡魔と戦う。ここで眠ってしまえば、彼は戻って来たときにがっかりするかもしれない。行為後にひとりにされ一抹のさびしさを感じたオレだから分かる。恋人と結ばれたにもかかわらず、その夜にひとり寝。或いは、どちらかが先に寝入ってしまう。オレがロマンティストだからなのかもしれないが、それはなかなかにものさびしいこと、のような気がした。
欠伸をしつつ目をこすって眠気を散らしていると、控えめな音を立ててシャワールームのドアが開いた。そこからひょこっとキルゲが顔をのぞかせる。しっとりと濡れた髪からぱたぱたと雫が落ちていた。行為の残り香に満たされていた室内に、淡い石鹸の香りが流れ込む。彼は常ならば色眼鏡に隠されているはずの両目をぱっちりと見開いて、「おや、起きていらしたのですねぇ」とのんびり言った。オレは「そりゃあな。夜はまだまだ長い」と答えて自分のとなりのスペースを軽くたたいた。彼は小さく頷くと、先程よりはしっかり歩み寄って来てベッドに乗り上げた。軋む音が半刻程前の房事を連想させ、らしくもなくドキリとしてしまう。キルゲはと言うと、ベッドサイドチェストから分厚い歴史書を取り出して、枕を重ねて背もたれにしてページをゆったりとめくった。
当然というか何というか、シャワーを浴びたばかりの彼は一糸纏わぬ姿にシーツを軽く下肢にのせただけの状態だ。いつもきちんと制服を着込み、衣服を脱がせようとするオレの手を柔く掴んでは顔を真っ赤にしていた彼だが、意外と開き直りが早いらしいことがうかがえて胸が高鳴る。抱いたのはオレだが、彼が時折魅せてくれる凛々しさにオレはなすすべなくときめく事しかできない。
シーツも彼の肌も石膏のような白さで、布地に描かれた皺や均整のとれた彼の肢体が彫刻のようだという感想を抱いた、だけに留まらずオレは率直にそれを彼本人に伝えた。途端にほんのりと染まる彼を見て、あぁ、無機物じゃなく生きものだ、と何故かとても安堵する。と同時に、悠然と読書の態勢をとり、寝ない準備をし終えたキルゲが心配になった。思い切り彼の体力を消耗させてしまった自覚があったからだ。オレの経験上、相手の子は疲れきってことりと寝落ちてしまうか、訥々と語り合ううちに次第に微睡んで夢の世界へと旅立ってしまうか、のどちらかだと思っていた。それがどうだ、目の前の彼は眠るでもなく、オレと語り合うでもなく、歴史書に夢中。オレが下手過ぎて彼の機嫌を損ねたのなら、今彼はオレのベッドの上には居ないはずだし、かと言ってオレにメロメロ、マタタビ嗅いだ猫ちゃんになる訳でもない。彼を満足させられなかったのかもという不安と、まさかこのまま徹夜とか言わないでくれよという心配がない混ぜになって、オレは思わず口を開いた。「もしかして、まだ足りない?だから眠れない?」
思ったより情けない声が出てしまった事に恥入り、また、貞淑な彼に対して失礼だっただろうかと物凄く後悔しつつ上目遣いに彼を見る。するとキルゲはあっけらかんとした口調で答えた。「十分足りておりますよ。それと、眠れないのではなく、眠らないのです」

あの夜から、両手では数え切れないくらいには彼とベッドを共にした。
結局あの後寝落ちしたオレが目覚めたとき、彼は歴史書を読んでいた。彼曰くオレの寝顔は可愛らしく、眺めるのに忙しくて寝る間も惜しい程であるそうだが、目の下に少しの隈を作った彼は相変わらず本の虫だった。
ほんのちょっと激しくしてみた夜は、流石の彼も疲れたらしくふわりふわりと微睡んではいたが、ギリギリのところでハッと目覚めてしまっていた。
その時のキルゲの様子が気になっている。というのも、勢いよく跳ね起きた彼は、胸の真ん中あたりに手をあて短く浅い呼吸を繰り返し、見かねたオレが彼の背を撫でていると、目に潤ませて縋るような視線を投げかけてきたのだ。自身の脆さになど見向きもせず、ただ前だけを見据えている、そんな印象を周囲の者たちに抱かせる芯の強さを持った彼が見せた一瞬のか弱さに、オレは瞠目した。
そして今夜。オレは意を決した。
あの夜のようにシャワールームから水の流れる音が響いてくる。しばらくして、微かなドアの開閉音。石鹸の香りとひたひたという足音、ぎしりと軋むベッド。はらはらと捲られる歴史書。普段ならオレが寝落ちてしまうまで一言二言言葉を交わしたり、一瞬の仮眠から飛び起きたキルゲを宥めたりするのだが、今日のオレは、既に眠っている。まあ、狸寝入りなのでいつバレるかわからないが、その時はその時だと開き直っている。
薄っすら瞼を持ち上げて、キルゲを見る。その瞬間、彼と目が合ったような気がして物凄く焦った。が、彼は本から視線を外してこちらを見ているのは確かなようだが、目が合った事には気づいていないようだ。ほっとひと息つきそうになるのを我慢する。すると、彼が動いた。慌てて瞼を不自然ではない程度にかたく閉ざす。暗闇の中で衣擦れの音だけが響いてくる。彼がこちらににじり寄ったらしく、ベッドが少し軋んで沈み込むのが分かった。その後しばらく無音が続く。自分の呼吸音のみに耳を澄ませていると、口元に不意に熱源が近付いて来たのが気配で分かった。もしかして口づけか、と内心ではしゃいでいると、キルゲが言葉をこぼした。

「生きてる……!」

囁くような安心しきったその声を聴き、オレは思わず目を開けた。そして、案の定すぐそばまで迫って来ていた彼を両腕でつかまえた。戸惑ったようなひっくり返った声を上げているキルゲをぎゅうぎゅうと抱きしめながら、オレはこのいとしい人の不安のタネはどうすれば取り除くことができるだろうか、と思案する。
しばらくはジタバタとしていた彼だったが諦めの境地に至ったらしく、脱力してひとつ大きな溜息をついた。そしてぼそりと苦言を呈した。

「狡い方だ。寝たふりなど……」

オレの腕に閉じ込められながらむっすりとしているキルゲに思わず笑みをこぼす。

「あんただってずるいぜ?いっつも寝てるオレを試してたんだから」

な、そうだろ?
そう言うと、図星を点かれたらしく、彼は苦い顔をする。その表情がまた可愛くて微笑ってしまう。
そして、お話の続きを強請る子どものような気分で彼を見つめていれば、彼はぽつりぽつりと語ってくれた。

「貴方だけには白状しましょう。

もう既にお分かりかとは思いますが、私は睡眠を恐れています。

眠りと、死の区別がつかないのです。

……いえ、判りますよ。

眠りはいつか目覚めますし、死は永遠に目覚めません。

それは理解しているつもりなのですが、どうしても無理なものは無理なのです。

自分が眠る瞬間など意識が消えるという点では死と何が違うのかすら判らない。

我が身可愛さで眠ることすらままならない。

自分ですら愚かが過ぎると辟易しているのですから、他人である貴方からすれば私は目も当てられないほど愚鈍なのでしょうね」

ここで言葉を区切ると、キルゲはオレを見つめた。それこそ試していると感じられるような、それでいて、お願いだから共感してくれと懇願しているような目つきだった。

「あんたは死を恐れていないかのような戦い方をする時がある。陛下の御為ならな。それでも、死を、ましてや睡眠までをも恐れるのか」

オレのふとした疑問に、彼は考え込むように視線を下げた。

「……陛下の御為ならば、死など恐くありません。陛下の手足となって戦うことができなくなる方が恐ろしい」

彼に関しては、陛下に嫉妬するのは無駄だと痛感しているためオレは遠い目をして、追い打ちをかけるつもりはないが、更に言葉を続ける。

「んー、あんたはオレを他人だと言ったが、他人の死を恐れるほどあんたは生温くない。ずーっとあんたを見てきたオレが言うんだから、この見方はそれなりに当たってるはずだ」

キルゲはきょとんとオレを見上げてくる。
このある種の無垢さが愛しくて堪らない。

「と言うことは、だ。あんたはオレと自分自身を同一視している、もしくは同じくらい大事に思ってくれてるってことだと思うんだが、これは自惚れ過ぎか?」

頬を染めて何か言おうと口を開いては閉じる、を何度か繰り返しているキルゲにオレは続けた。

「あんたとオレは一蓮托生ってわけだ」

「……成程。ですがそれですと死なばもろともと言っていると同義。それは、いやです」

珍しく子どもっぽい口調で舌足らずに言うと、キルゲはようやくオレの背に腕を回した。

「どうか、私より生きてください。いつか来たるべき時が来た時も」

「りょーかい。敵前逃亡しまくってでも、あんたより長生きしてみせるさ」

この言葉を最後に、ふたりで揃って眠りに就く。その翌日、オレは初めてあんなに安らかな彼の寝顔を見た。

───約束なんてするもんじゃねえな。
あんたは独り敵地で斃れ、オレはといえば、気づけばあんたよりだいぶ長生きしちまった。
ま、そんなオレも万策尽きたみたいだ。
行き先が地獄とか、そういう生易しい場所じゃねえのは分かってる。
陛下の養分になるのは御免だが、そこにあんたが居るなら悪くはないかもな。

あれ?あんた、待っててくれたんだ。
……ははっ、素直になったもんだ。
死ってのは性格の箍まで外しちまうのかねぇ。
ちょうどいい、今ちょっと眠いんだ。

どうせろくに寝れてないんだろ?

あんたも一緒に眠ろうぜ。

おやすみ

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