Gefängnis/Bluttropfen

Gefängnis

男の記憶は、くらくて冷たい箱から始まる。
箱の隙間から漏れる一条の光が、彼を辛うじて外界に繋ぎ止めていた。
彼はぐしゃぐしゃに濡れた小さな顔を小さな両手で拭いながら、何事かをしきりに呟いている。
よく聞けば、それは「ごめんなさい」だった。
その少年、否、幼児にはまだ理解できない文字の羅列。
最初のうちは泣いて叫んでいたのだが、今は声を震わせ呟くことしか出来ない。
そこに至っても、彼は謝罪を止めず。ただ只管に、外界へ向けて赦しを乞う。
自分の何が”あれら”の気分を逆撫でしたのかも理解できないまま。

唐突に扉が開けられ、彼はあまりの眩しさに強く目を閉じた。
ふわりと、温かくて柔らかい何かに包まれる。彼は呼吸も忘れたように硬直してしまう。
“それ”は優しく彼に言葉をかけた。
「これも貴方の為なの」
その言葉の意味は彼にはまだ分からない。
それ以前に、自分にかけられた言葉に注意を払えるような余裕は彼にはなかった。
この温かい何かが恐ろしくてたまらないのだ。
抱擁によって一瞬の安寧は得られる。だがそれは永遠ではないという事実を、彼はこの時点で経験から感じ取っていた。このぬくもりは直ぐに離れていってしまうことも。そして、この柔らかさが明確な害意をもって彼を損なうことも。
ぎこちない動きで箱を振り返る。
あの冷たさが恋しかった。
いついかなる時も、彼をこのぬくもりから切り離してくれる硬質さが。
どうせなら、初めからずっとそこに。

幼子が少年になる頃には、あの箱は使用されなくなっていた。
彼があれらの望む完璧な少年へと成長したからだ。
だが、彼にはある奇癖が生じていた。
例えばクローゼット、狭いそこに成長途中の身体を押し込み、扉を閉める。
そして只管に「ごめんなさい」を繰り返すのだ。
別に何か悪い事をしたわけでもない。
ただ足音をすこし大きくたててしまったなどの、些細な理由だ。
もうあれらが彼を脅かすことは殆ど無い。
それほどまでに彼はあれらの言いつけを完璧にこなしていた。
まれに理不尽とも言うべき暴力が彼を襲うが、それは彼のせいではない筈なのに。
それにもかかわらず、彼は自らを戒め続ける。
彼は自らを閉じ込めておく事にこの上ない安堵を感じるようになっていた。
ここに居さえすれば、何者も彼を損なうことはない。
荒唐無稽だとは感じつつも、半ば本気で彼はそう信じていた。

Bluttropfen

深紅の小さな水溜りに己のかんばせが映り込む様を、頬を上気させて見つめる『我が子』。
器に注がれた液体をその身に流し込む瞬間を今か今かと待っている。今にも飛びつきそうなその様子は、待てをされた犬のようだ。
その名を呼べば、陶酔しきった表情でこちらを見上げる。
嗚呼なんと純粋で、穢れた感情を向けてくることだろうか。
劣情と呼んでも差支えのない情動を隠し切れず、それでもひた隠しにしようとするその忠誠心と自制心。
頬から顎にかけて撫で下ろしてやっても安易に擦り寄ってくるような浅はかな事はしない。
よく躾けられている。……否、躾けている、己自身を。
他者から与えられる支配という名の、歪みいつ朽ち果てるかも判らぬ籠の中に閉じ込められる事に安寧を見出したこの小鳥は、飼い主を見失って此処に堕ちてきた。
「さぁ…」
促せば、震える両手で器を持ち上げ、そっと口に運ぶ。
こくりと嚥下した刹那、目を見開き喘鳴をあげながら胸元を押さえて蹲る様を見下ろしていれば、口元が自ずと笑みの形をつくる。我が子達の中には無様にのたうち回る者もいたが、この子はそうではない様だ。
親や上官などといった支配の檻は揺らぎ易い上永遠ではない。いずれは飛び立つ時が来るのだから。その事実がこの小鳥を苦しめていたのだろう。ならば。
「お前に『監獄』の名を与える。…………永久に飾っておくとしよう。」
『YHVH』───私という支配の檻の中に。
そう告げれば、落ち着きを取り戻した我が子は恭しく傅き頭を垂れた。

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